田山花袋『重右衛門の最後』における没個性的な語り手による問題意識の顕在化について
「重右衛門の最後」は田山花袋初期の名作として、「布団」と並び、高く評価されている。しかし、二者は全く異質な印象を読者に与える。そのことを、「共同体」と「個」の人生という対比で表現したい。
「布団」の語り手である竹中時雄は作家である。作家という職業は、少なくとも小説の中にあっては特権的な語り手たりうる存在であって、それは強い「個」を持っている。対して、「重右衛門の最後」における語り手、一人称を自分とする富山はどうであろうか。こちらは、むしろ没個性的だ。そもそも、物語の一番大きなカタルシスに対して、すなわち重右衛門による放火、そして彼の私刑による最後について、富山は干渉していない。
この没個性的な視点こそ、「共同体」の眼だ。共同体の人生にはトリック・スターとしての性質はないが眼、すなわち視点がある。富山は塩山村の村人ではなく、彼らと共通のコンテクストを持ってはいないので、事件を前にして《嘆ぜずには居られなかつた》が、彼は何も行動していない。思考と行動におけるずれの感覚が共同体の異常性を暗示している。
さて、「共同体」と「個」の人生という対比は、作中にも存在する。村社会という閉鎖的な空間において、村人たちは村特有の共通するコンテクストを持ち合わせている。これは、村にあっては「個」を虐げる巨大な力である。対して、重右衛門及び少女は、そこから一歩離れた場所にいる。彼らこそ「個」としての人生を歩む者たちである。
田山花袋は「共同体」に巧妙に溶け込むことのできる没個性によって、共同体側の視点から「共同体」と「個」の人生を書き分け、虐げる者たちとしての共同体の営みをあぶりだし、その問題意識を顕在化させているのではないだろうか。