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留学経験から「コミュニケーション(能力)」を再考する

私はアメリカ合衆国のオレゴン州にある大学で半年間の交換留学をしていました。留学を終えてからもう1年半以上経ちますが,最近大学から留学経験者に対して異文化経験者体験記を書いてほしいとの依頼があり,そこで書いたものを若干修正を加えてこちらに転載。

期待されていた内容としては,留学先の大学紹介や生活,学習,留学準備,留学で学んだこと,留学を考えている人へのアドバイス etc. みたいですが,それについては留学帰国後すぐに書いていて大学ホームページでも読めるのでその URL を載せておいて,あとは自分が書きたいと思うことを好きに書かせてもらいました。誰が読んでくれるかも分からないのに,自分が書いていても楽しくない内容を書くのに時間を割くのは耐え難かったので,せめて書くなら自分にとって書く甲斐のあるものを書こうという気持ちで書きました。せっかくなので英語教育について考えるための note に残しておきます。

以下本文。

 私は英語教育を専攻していて,「コミュニケーション(能力)とは何か」ということについて常日頃から考えたりすることが多いわけですが,今回はこの問いを起点に留学での経験を改めて振り返ってみようと思います(昨年の異文化経験者を囲む会でも同じような話をしました)。このテーマは留学を終えてからどれだけ時間が経っても私にとって振り返る意味があると思っています。
 「コミュニケーション」と言っても,聞いたり,話したり,読んだり,書いたり,ノンバーバルなものも含め,多様な形があり,それらが複雑に絡み合っているのがコミュニケーションの自然な姿と言えると思いますが,今回は特に「話す」ということに焦点を当てて考えます。

英語力=スピーキング力?

 留学中に同じ授業を取っていたアメリカの学生から声をかけられインタビューを受けることになりました。その学生は異文化についての授業を履修していて,自分とは異なる文化的背景をもつ人にインタビューをするという課題が出され,留学生の私に声をかけてくれました。インタビューの中で,「アメリカに来て,何か自分に対する偏見を感じたことある?」と聞かれました。アメリカに来てまだ2か月くらいのときでほとんど大学のキャンパス内で過ごしていた私は特に自分に対する偏見を感じたことがありませんでしたが,何かないかなと考えているときに浮かんだのが,私の英語力に対する偏見でした。これは人から何か言われて嫌な思いをしたとかでは全くないし,「偏見」と呼べるかも分かりませんが,私自身の中でその時期に強く思っていたのが,「(英語で)うまく話せないけど,書くことならできるのにな~」ということでした。授業中グループで議論したりすることはほぼ毎回ありましたが,自分の考えを整理しながら即座に英語で話すというのはなかなかうまくできませんでした。そしてこのうまく話せない状態が私の英語力の限界だと思われているかもしれないという悔しさがありました(今思うと私の勝手な被害妄想のような気もしますが)。書くことによって自分の考えを表現することに自信を持っていた私は,授業の中で「話す」という側面でしか他者から評価されない状況に若干フラストレーションを感じていました。(もちろん,授業中議論するなど,話すことで考えを伝えることの必要性を否定しているわけではありません。)母語話者同士のコミュニケーションでは互いの言語力を気にするというのはあまりないかもしれませんが(日本語の本を読んでいて文章の上手さに感動することはよくあります),自分の母語を第二言語として学んでいる人とコミュニケーションするときには,相手の言語に対する評価のまなざしが,意識的にも無意識的にも入り込んでくるのではないかと思います。私も日本語を第二言語として学んでいる人に「日本語上手ですね!」と言ったり,逆に私が英語母語話者と話していて “Your English is great.” などと言われた経験はたくさんあります。数分間会話しただけで。
 言語を使う力というのはそんなに短時間で適切に評価できるのでしょうか。ここで言う「評価」というのは「印象」に過ぎないと思いますが,それでも「会話」というのはコミュニケーションの内のほんの一側面に過ぎないということを認識しておくことが大切だと思います。よくできていることを褒める場合はまだ良いかもしれませんが,反対に,数分間の会話でその人の言語を使う力を過小評価してしまう恐れもあります。私は留学中に,英語を第二言語として使う私に対する周りからの評価のまなざしを感じ,しかも短時間に「話す」という一側面だけを見て評価されているのではないか,それは偏った見方になるのではないかというモヤモヤを抱えていたということになります。私の勝手な被害妄想かもしれませんが,そう感じていた事実は疑い得ないわけで。授業中は話すことが要求されますが,嬉しいことに授業の課題は基本的に「読んで書く」だったので,私にとっては課題が自分の考えを思う存分表現する場になっていました。インタビューしてくれた学生と一緒だった授業では,課題はオンライン上に投稿して学生同士でコメントし合うことになっていて,その学生に「あなたの投稿すごくよく書けてるね」と驚いた様子で言われました。おそらく,普段の話ぶりとのギャップに驚いたのでしょう。私は留学以前はほとんど日本で英語を使ってきましたが,その経験の中身はというと,英語で日常生活を送る経験や英語で議論したりする経験はわずかで,むしろ英語でアカデミックな文章を読んだり書いたりする経験の方が圧倒的に多かったです。そのためあくまで私は,英語で話すことよりも書くことの方がよくできましたが,留学で出会った他の留学生は英語での日常会話はなんなくできるけど,アカデミックな文章を書くことに困難があるということもありました。
 先ほど,「授業中は話すことが要求されます」と書きましたが,より正確に言うと,「授業中は聞いて,話すことが要求されます」となるでしょう。松岡亮二(編著)『教育論の新常識 格差・学力・政策・未来』の中の阿部公彦先生の論考(「ぺらぺら信仰がしゃべれない日本人を作る」)の中で,阿部先生は,私たちがしばしば「英語がしゃべれない」と言うとき,実は話すことよりも聴くことの方に困難があるのではないかと指摘します。確かに私も,授業で「話せない」という以前に,「聴けてない」ことが多々あったなと今振り返って感じます。
 もう一つ,自分で書いてきたことにツッコミを入れるとすると,「「話す」という一側面だけを見て評価されているの」と書きましたが,「話す」ということは単なる一側面ですらないとも思っています。「話す」ということがいかに複雑な文脈に埋め込まれているかということを次のエピソードを通して考えたいと思います。

話すことは儚いこと

 留学中は授業でのグループワークを何度も経験しました。いろんな人たちとグループを組むと,当然ながら,居心地の良いグループとそうでないグループもあります。居心地の良いグループでは,グループメンバーが私の話を真剣に聴いて理解しようとしてくれている感じがすごく伝わってきます。「つたないけど,すぐ言葉に詰まっちゃうけど,みんな聴こうとしてくれている」という安心感があります。私もそれに応えようと頑張って伝えようとします。言いたいことがあるのになかなかうまく言えないとき,「それってこういうこと?」って周りが言葉を補ってくれます。キャッチボールの比喩では表し切れないコミュニケーション空間がそこにはありました。
 一方,居心地があんまり良くなかったグループでは,英語を不自由なく話すことができない留学生の私と他のメンバーとの間でパワーバランスの偏りがあるように感じました。つまりグループで物事を進めていくときに,意見を聴いてもらえないというような状態です。私も少し委縮してしまって,考えていることがあっても,それを伝えようとすることができませんでした。
 このような書き方をすると,グループの居心地の良し悪しの理由を自分以外のグループメンバーに全て帰属させているように感じられるかもしれませんが,そんなことは思っていなくて,人間関係にせよ,コミュニケーションにせよ,「うまくいくもいかないもお互いの責任」というのが私の基本的な考え方です。最初は居心地が良くなかったグループも,その後回を重ねるごとに少しずつ打ち解け,私もアイディアを出したり,それを前向きに受け止めてくれるメンバーがいたり,それで私も自信を高めることができ...という良い流れができてきました。
 「話す」ということが単に私個人のスピーキング力なるものの現れではなく,私の置かれた文脈に大きく左右されるということを身をもって感じた経験でした。貴戸理恵さんは,『「コミュニケーション能力がない」と悩む前に』の中で,「他者や場との関係によって変わってくるはずのものを,個人の中に固定的に措定すること」を「関係性の個人化」と呼んでいます (p. 3)。「「話す」ということが単なる一側面ですらない」と上で書いたのは,貴戸さんの考え方を踏まえると,「話す」ということが個人の言語能力の総体の一側面ではあり得ないからです。それは常に具体的な他者や場との固有の関係性の中で立ち現れる,一過性の儚い現象です。

ネイティブ幻想

 最後に,アメリカ人の学生のエマさん(仮名)のエピソードを通して考えます。私もエマさんも Introduction to Teaching という教育メジャーの授業を取っていました。その学期の最後の方で,各自が設定したテーマについて一人一人プレゼンするという時間がありました。エマさんの番になり,教室の前に立って,事前に準備していたスライドを見せながらプレゼンを始めます。スライドを数枚進めたところで,声が詰まってきて,突然泣き始めました。プレゼンを続けられなくなり,途中で止めて席に戻ります。エマさんと友だちだった私はその後で話を聞いてみると,人前でプレゼンをすることに大きな恐怖心を抱いていました。ところが,普段の授業では自らを手を挙げて発言したり,他の授業でのプレゼンの際には堂々と話したりもしています。あの時何がエマさんを不安や恐怖にさせたのかを窺い知ることはできませんが,「ネイティブ」だからと言って,常に,同じような水準で,話したりできるわけではないことが分かります。それは私たちが母語である日本語でも状況によって思うように言葉を使えないことがあるように,多くの人が経験していることだと思います。自分の母語ではこういうことを経験しているはずなのに,ひとたび英語となると,「ネイティブ」を言語使用において完全無欠かのように思ってしまう節があるのはなぜでしょう。「ネイティブレベルの英語力」って一体何なのでしょう。
 このエピソードを「話す」という言語使用の問題として捉えるのには異論もあるでしょうし,私も言語使用の問題に無理やり押し込んでいる感はあります。しかし,裏を返せば,言語使用や言語能力というものを他者や状況など他のあらゆる物事との関係性から切り離して論じることの限界を示しているようにも思います。コミュニケーション(能力)について考えるとき,「人と人」「人と社会」「人と文脈」などの「関係性」を捨象しないことは必須条件だと思います。
 
 心地よいコミュニケーションを追究するために,コミュニケーションの儚さや言語を使う者としての私たちの弱さ,不完全さと向き合うことを大切にしたいです。

 ちなみに,プレゼンを続けることができなくなったエマさんに授業の先生がかけた言葉は,


“There is no correlation between being a good teacher and speaking skills.”

というものでした。(そのままの言葉ではないかもしれません。意味を私が再構成しました。)

 留学は総じて非常に楽しかったです。留学中ずっとこんなことを考えながら過ごしていたわけではありません。

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