そうなるくらいなら死んだほうがマシだと思っていた
ここ1ヶ月
わたしの体調不良の状態を
ずっと見ていた娘。
「はやく病院行ってきて」
とずっと言ってくれていた。
「そうだよね」と言いつつ、
おしりを見せなくてはいけない
はずかしさが勝って、
受診することができないでいた。
それでももう
体力的に限界がきていて
受診を決意し
「明日病院行ってくるね」と伝えていた。
クリニックから帰宅してすぐに
「大学病院で受診することになったよ」と伝える。
もしかしたら がん かもしれない、
と。
「でもまだわからんよね」と言う娘。
「うん。そうだね」とこたえるわたし。
「大学病院に行って検査したらハッキリするね」
そこからGW明けの受診までが
ほんとうに長かった。
体調は悪くなる一方で、
ある時は
ひどい吐き気をおぼえて
トイレに顔をつっこんだまま
動けなかった。
吐けてしまえば
らくになるんだろうに、
吐き気が襲って来るだけで
まったく吐けない。
涙と脂汗がでる。
からだが
ぼーんと熱く感じる。
とにかくだるい。
お腹が痛い。
しんどい日が続く。
やばいな、これ、
ほんとうに
がんかもしれない。。。
そんなふうに感じることが
増えてきた。
当然のように
ネットで検索しまくる。
そこで出会ったのが
「人工肛門(ストーマ)」
の存在だった。
がん細胞がある場所が
肛門にちかい直腸がんの場合、
この「ストーマ」になる可能性が高い、
と書かれていた。
それを読んで、
「うわ 最悪だ」と思った。
「これだけは絶対いやだ」と。
(注:ここからわたしの人工肛門に対する気もちを表現していきますが、これは決して現在人工肛門や人口膀胱を造設している方々への否定の言葉ではありません。そういった方々を傷つけることも、その方々の存在を否定することも全く意図しておりません。が、もしわたしの言葉がだれかのこころを傷つけてしまうことがあるならば、それは本当に申し訳ないことです。わたし個人の感情のプロセスであるということだけお知らせしておきたく、注意書きを入れさせていただきます)
がんはしかたない。
でも
人工肛門だけは
ほんとうにいやだ。
絶対に避けたい!
・・・・・
魂うた®︎の師匠でヒーラーズヒーラーの本郷綜海さんに
何かをおそれているときには
「考え得る最悪のことはなにか?」
と自分に問うといい、
と教えてもらっていた。
そして、
最悪
それは起こりうるのだ、
ということを受け入れてしまえば、
それはおそれではなくなる。
わたしの場合、
今回起こりうる最悪の出来事は
「がんでしぬかもしれない」
ということではなく
「人工肛門になる」
ことだった。
しぬのは しかたない。
ひとはいずれ
かならず しぬのだから。
いまがそのときだよ、
と肩をたたかれれば
それを受け容れるだけだ。
そんなふうに思っていた。
身近な大切なだれかがしぬのは
かなしくて苦しくなるけれど、
自分がしぬことには
あまりこわさがない。
むしろ しは
わたしにとっては
やすらぎだった。
だからといって
好んで しを選ぶつもりは
いまは ないが。
とにかく、
しよりもわたしにとってつらいことが
「人工肛門」をもつことだった。
うぉーーー!いやだーーー!
うけいれられーーーん!!
と
のたうちまわり、
泣きながら、
今のわたしにとって
最悪の出来事を
受け容れる準備をはじめた。
最悪、
それが起こってもいいように。
そして
同時に、
がんじゃなかったよ、
と言われるパターンも
イメージしてみた。
それでも
どちらにしても、
この痛みや
身体の不調からは
解き放たれたい、と感じていた。
人工肛門がしぬよりいやだ、
ということを息子にはなしたら
「え、しよりも人工肛門がいやなの?」
「じゃあアレだね。
人工肛門の手術中に
失敗されてしぬしかないね」
とちょっと笑いながら言われた。
わたしは
「え」となった。
一瞬言葉を失って
しばらく間をおいて
「え、それは考えたことなかったわ…」
と言った。
時間が経つにつれ
じわじわと
おもしろおかしくなってきて
笑った。
なんだそれ、息子よ。
笑
斬新すぎるアイデアだな。
この話をすると
「え」と絶句して
ひく人が多いけれど、
(いや、わかります!
わたしだって一瞬ひきました 笑)
わたしにとって、
笑いながらそんな冗談を
(半分は本気だろうけど)
言い合えることが、
うれしかった。
がんも しも 人工肛門も
特別な 悲劇 ではなくて
ありふれた日常に
起きている出来事のひとつなんだよね、
と
思えたから。
そして
どんなときだって
おもしろさは
そこらじゅうにあふれている。
それって
実は
とてもとても
ゆたかだ。
それでも、
娘のショックや不安は相当なものなのだな、
と感じていた。
GW中は
気づくとわたしの布団にもぐりこんできて、
よく2人でひっついて話をした。
「しおちゃんいなくなっちゃったら どうしよう」
「だれかたすけてくれるかな」
と涙を流しながら話す娘の姿を見て、
いたたまれない気もちになった。
大切な娘が
こんなにも不安な気もちを抱えているのに、
わたしったら
「し はやすらぎだ」
なんて…
でも
それは
わたしにとっての真実なんだよな。
「だからといって
自ら し を選ぶことは
しないよ」
「いのちあるかぎり、
生きるよ」
「そして
いろんな人が
たすけてくれるよ」
と話した。
さんざん2人して
涙を流して話をした後で、
「こんなふうに話してて、
がんじゃなかったら
めっちゃ笑えるね〜」
と言って
うふふと笑った。
そこから彼女は、
友人に話を聞いてもらったり、
ゲームに没頭することで、
現実のつらさから逃げていた。
逃げたっていい。
逃げることが
そのときの彼女には
必要だったんだ。
そうやって逃げながら、
時間をかけて
すこうしずつ
彼女なりのやり方で
現実をうけとめていくんだな、
とその姿を
じっと見守っていた。
時々、
張りつめすぎて
しんどそうな彼女の姿を
そのままにしておくのがつらくて
「ちょっと話そうよ」
と
わたしから誘うこともあった。
かなしいときは
ちゃんと泣かないと
身体中にかなしみがたまってしまって
余計につらくなる。
身体の内に在る感情は
出さなければ、
たまる一方だ。
うちのネコみたいに
こわい想いをした時に
身体をぶるるんと震わせてから
やたらと毛づくろいをするみたいに
身体レベルで
おどったりさけんだりうたったりして
出せるならいいけれど。
そうじゃないなら、
かなしさや不安やこわさや、、、
そんなものに素直になって
ちゃんと泣くことがたすけになる。
だから2人で話して
たくさん
涙を流した。
そんなことをくりかえす。
とても
とても
ながいGWだった。
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