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子どもたちの「心の壺」。最初に何を入れる?

漢字の学習ですが、結構私は時間をかけます。
とはいえ、それは同じ字を繰り返し書く時間ではありません。
ひとつひとつの新出漢字について、私はたっぷり子どもたちと対話します。
どんな成り立ちか。どんな部首が使われているか。
まだ習わないけれど、他にどんな読み方があるか。
今まで習ったどの字に似ているか。使ったことのあるパーツは使われているか。
どんな言葉に使うか。どんな時につかうか。誰の名前に使われてるか。どんな仲間の字があるか。
毎日が、子どもたちの好奇心と、私の雑学量とのガチンコ対決です。

漢字をただの記号として扱ってしまえば、漢字学習はただの暗記に成り下がります。暗記はただの苦痛にしかなりません。
漢字はアイテムです。出会いをきっかけに、語彙を増やしたり、世界観を広げたりすることができます。
例えるなら、世界を開く「門」です。
読める字が増えるほど、新たな門が開く。開いた門から、新しい言葉が入ってくる。新しい世界が広がる。そういう面白さを、子どもたちに感じてもらいたいのです。

例えば、「寺」という字を教える時。「時」を教えた時に、それが日と寺で出来ていること、昔は時を「日」の動きで測り、「寺」の鐘で日々人々に伝えたこと、を教えてありました。その「寺」が、満を持して正式登場です。そんな時、1人の子から、まさかの問いが出ました。
「先生、お寺って、なに?」
おおう!、そこからか。
すると、別の子がすかさず言いました。
「学校の正門から歩道橋渡ったとこにあるヤツだよ。」
うーん、それは神社だなあ。
そこで、子どもたちに神社と寺、神道と仏教の違いを説明しました。
すると、
「でも先生、あそこは神社なのに鐘があるよ。」
ぐはあ。そこに気付かれたか。
でも、子どもたちが知りたがってる時にごまかすのは、ポリシーに反します。知りたがってる時ほど、子どもたちが伸びる時なのです。

そこで、日本が、世界的にもめずらしい神仏習合という大らかさを持った国であることを話しました。当然、この説明には「神様」という言葉が多数出てきます。すると、子どもたちがまた腑に落ちない。子どもたちのイメージする神様はイエスキリスト的なものであり、アマテラスオオミカミではないのです。子どもたちの頭の中では、お地蔵さまとイエスキリストが合体しているのです。
そこで、キリスト教と神道と仏教の違い、教会とお寺と神社の違いを話しました。すると子どもたちが騒然とし始めます。神様は1人なのか、800万人なのか。人は生まれ変わるのか、生まれ変わらないのか。木に神様は宿るのか、宿らないのか。それぞれがそれぞれの考えを語るのですが、それが実に面白い。
5分くらいのつもりが、子どもたちの質問が引きも切らず、30分近くこの話題が続いてしまいました。
なんという好奇心! まさか、子どもたちがこんなにも、「神様」について知りたがるとは!

きりがないので、私が若いころに旅して回った様々な国の「神様」観を紹介して、締めくくりました。


「信じる神様の姿は人によってそれぞれで、そもそも神様を信じない人だっています。どの神様を信じるか、それともどの神様も信じないかは、みんな1人1人の自由です。誰であろうとも、どんな理由があろうとも、それを間違っていると言ってはいけません。
だって、だーれも死んだことはないんだから、神様がいるのかいないのか、どんな顔をしてるのか、誰にも確かなことがわからないのです。
いつか君たちもたくさんの国の人に出会って、いろんな考え方に出会ってごらん。」

ひとつの漢字から、こんなにも話は広がる。世界も広がる。こんなにも、頭は回転する。
こんな面白いものを、ただの暗記アイテムにしてしまうのは、もったいなさすぎるでしょう。
私の同僚の多くは、漢字ドリルを渡して終わり。自分のペースで進めなさい、と。教師はたまに丸付けするだけ。テストするだけ。評価するだけ。
効率はいい。けれど、思うのです。その効率は、何のため?その効率で、人生は豊かになるの?
西村ひろゆきさんが、こんなエピソードを著書で紹介しています。

「クイズの時間だ」
教授はそう言って、大きな壺を取り出し教壇に置いた。その壺に、彼は一つ一つ岩を詰めた。壺がいっぱいになるまで岩を詰めて、彼は学生に聞いた。
「この壺は満杯か?」
教室中の学生が「はい」と答えた。
「本当に?」
そう言いながら教授は、教壇の下からバケツいっぱいの砂利を取り出した。砂利を壺の中に流し込み、岩と岩の間を砂利で埋めていく。そしてもう一度聞いた。
「この壺は満杯か?」
教室中の学生が「はい」と答えた。
「本当に?」
教授は笑い、今度は教壇の下から砂の入ったバケツを取り出した。それを岩の隙間に流し込んだ後、三度目の質問を投げかけた。
「この壺は満杯か?」
学生は声を揃えて、「はい」と答えた。
「本当に?」
と教授は水差しを取り出し、壺の縁までなみなみと水を注いだ。彼は学生に最後の質問を投げかける。
「僕が何を言いたいのかわかるだろうか。」

皆さんは、お分かりになりますか?

「先にいっぱいに水を入れれば、砂はもう入らない。
先に砂をいっぱいに入れれば、砂利はもう入らない。
先に砂利をいっぱいに入れてしまえば、岩は絶対に入らない。
この例が私たちに示してくれる真実は、大きな岩は、一番最初に入れないかぎり、それが入る余地はその後二度とないということなんだ。
君たちの人生にとって「大きな岩」とは何だろう。
「ここでいう「大きな岩」とは、君たちにとって一番大事なものだ。
仕事であったり、志であったり、愛する人であったり、家庭であったり、自分の夢であったり……。
それを最初に壺の中に入れなさい。さもないと、君たちはそれを永遠に失うことになる。
もし君たちが小さなものから自分の壺に入れて満たしてしまえば、君たちの人生は重要でない「何か」に満たされたものになるだろう。」

「座右の寓話」より


私が今、子どもたちの心の壷に入れたい大きな岩。それは、好奇心です。
それさえあれば、子どもらは勝手に伸びていく。
勝手に心を豊かにし、勝手に生き生きと生きていく。
だから今は、粗削りでも、失敗だらけでもいい。
早く完成しようとしなくていい。
知る喜び、出会う喜び、世界が広がる喜び。
それをただただ純粋に、追いかけてほしい。
そういう子こそが、たとえ不器用で非効率的でも、より豊かな人間性を育んでいくはずだと、私は信じています。

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