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うさぎのクーモ|内木場映子 原案・絵 村野美優 文クルミド出版(2023)

うさぎのクーモ
内木場映子 原案・絵 村野美優 文
クルミド出版(2023)

おとなになっても、絵本はうれしい。
とくに、子供のいない一人暮らしの僕にしてみれば、こうして新作絵本にふれる機会は、なかなかないことなので、ありがたいものです。この本は内木場さんによる、28枚のあざやかな銅版画でつむがれています。

最近、あらためて物語(もの・がたり)や神話、あるいはお伽話というものが気になります。『うさぎのクーモ』は亡くなったうさぎ クーモと、その飼い主だった少女 みづきが主人公。うさぎの国と現実世界を行き来する、そのストーリーが魅力にみえます。

村上春樹と川上未映子の対談書『みみずくは黄昏に飛びたつ』のなか、村上は日本の物語について、死者の世界と現世をわりあいかんたんに行き来することが、ひとつの特徴という旨を指摘しています。たしかに井戸をもぐったりしながら、異世界にでては、またもどってきたりしている。

あの世とこの世が二分されていない。それは、われわれの日常にあるお盆の習慣なんかもそうでしょう。なぜか夏の合間だけ帰省するみたいに、先祖が帰ってくる、そしてしばらくすると、また来年、と去ってゆく。

それは、フィクションとノンフィクションの境目が曖昧であるともいえます。でも、かんがえてみると、それもまた、ほんらい二分されるものではないのかもしれない。たとえば、あまたに存在する神話や宗教。これら自体はフィクションです。しかし、それを共有する集団がいて、そこにおける、ふだんの価値形成を神話や宗教がつかさどっている。現実、つまりノンフィクションを稼働させるためのOSとして、フィクションが機能している。

しかし、そうしたフィクションたる物語もまた、じっさいの風土や生活、集団社会といった環境のなか、濾過された結果でもあるでしょう。そうして「いま」「これまで」「これから」の時間軸が溶け、「いつか」の風景があらわれた結果が、神話とよばれるものなのかもしれない。

フィクションとノンフィクションは、たがいが曖昧に溶けたり、ときに棲みわけられたりしながら、つねに循環している。

ふと、いまは物語や神話、つまりフィクションが軽視されているようにもみえます。それを、消費的なエンターテイメントにとどめてはいやしないか。そして、悪き物語を乱造してやいないか。日々、眼前を通過する広告物や、各種のメディアコンテンツをみればみるほど、うんざりとしてしまうものです。

よき物語にふれるよろこび。そこから自身の日々へ濾過されゆくもの。気づけば、なんども繰り返し読んでしまった『うさぎのクーモ』をみながら、そうしたことがうかびました。


5 September 2024
中村将大

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