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卒業制作のはなし

年があけるころ、デザイン系・美術系大学や専門学校では「卒業制作」ということばを頻繁に耳にするようになります。また、いまの時期のように年度の変わり目になると、そうした機関に在籍する、卒業年度の方々は気になる話題となるのではないでしょうか。

これはいわゆる、一般大学における卒業論文と同様、学校・学科が在校生各々に卒業認定をおこなうか否かを判断するためのものです。学科・専攻における在籍期間の成果であり、それをプレ社会人として実施・検証するプロセスとであるといえます(建築系学部では卒業設計ともいわれます)

私自身、美術大学のデザイン学科を卒業しているため、当然、この卒業制作を経験していますし、デザインの専門学校で講師として勤めはじめて以来、数年に渡り卒業制作の指導を担当してきました。そのなかで、いつしか漠然とした疑問が浮かんできたことも事実です。というのも、こうした卒業制作が、前述の一般大学における卒業論文と同様の扱いであるのであれば、もうすこしそれぞれの機関としての定義を明確にし、学生にしても、指導教員にしても、学校としても、より密度のある時間と成果にすることができるのではないか?というものです。どういうわけか、デザイン・美術系大学や学校においての卒業制作は「好きなことを、好きなように時間をかけてできる(唯一の)課題」という認識が学生・指導教員ともども、すくなからずあるような印象をうけます。

もちろん、それもいいでしょう。興味があることを、納得するまで追求することは必要です。しかし現状、そういうことではなくたんに趣味の延長というか、他人からすれば取るに足らないものであったり、判断基準を自身に寄せ過ぎたあまり閉じてしまったもの——きわめて大雑把に表現するのであれば質、時間にたいしての達成値・経験値のひくい卒業制作が毎年一定数、生まれていることもまた事実であるといえるのです。

はやい話が、一般大学における卒業論文が「特定のテーマについて研究をおこない、自身の専門スキルとするため、その領域の教授・研究室につき、そこでの成果を記録・プレゼンテーションし共有知として世間に公開する」というものが、研究機関・修学機関としてのひとつの役割であれば、いわゆる卒業制作はまだそれほど、しっかりとした土壌や、世間からの価値を得ていないのではないか?とも考えられるのです。学生が世に出る直前、あるいはその後の研究をおこなう前段階において、社会における自分自身の役割だとか、スタンスを自覚する時間として捉えると、卒業年度の課題としては適切なものであると、腑に落ちるものです。

いわばクリエイティビティ、創造の場とされるデザイン・美術系大学や学校においてそうした指摘をおこなうことは、ナンセンスなことかもしれません。しかしこのような風潮があるからこそあえて、一元的ではない視点として「卒業制作」という行為の定義や価値づけや、意味づけをおこなってもいいかもしれないとも感じています。なにより研究機関・修学機関であれば、その機関自身が明確な卒業制作への見解をもってしかるべきですし、とりわけデザインの現状をみれば、水道やガス、交通、医療とおなじように社会におけるひとつのインフラストラクチャとしての役割を担っています。

そうした社会状況をふまえてみても、こうして「卒業制作」の存在そのものを考察することがあってもいいかとかんがえています。卒業制作の成果物は各所で批評を散見することがありますが、そもそも卒業制作そのものについて言及や議論されるケースは稀であると認識しています。これはどうも、バランスが悪いように感じてなりません。

ここから記述することは、美術大学でまなび、デザイン専門学校で指導にあたる私個人が、それをふまえから、これから卒業制作にのぞむひとたちへの、ひとつの意見としてまとめた私見です。

1: 広げるのではなく、絞るという視点。
卒業制作は、およそ一年間をかけて取り組むものではありますが、身の丈にあわないおおごとなことよりも、目的をしぼりみずからの「できること」の拡大と精緻化、自分なりのワークフローを模索することで、卒業後の社会生活における基礎・土台固めをおこなう時間と捉えられます。
 ● 大枠の進行イメージ
 ①卒業制作に関する基礎調査
 ②テーマ候補の選出
 ③基礎研究
 ④卒業制作テーマの設定
 ⑤方向性の検討
 ⑥骨子案
 ⑦テーマに基づく分析調査
 ⑧検証およびスタディ
 ⑨資料・素材収集など
 ⑩実制作
 ⑪プレゼンテーション

2: テーマ設定は任意・進行は自己責任
美術大学や学校において、卒業制作は学生にとって、ほぼ唯一といえる能動的な授業である場合がほとんどなのではないでしょうか。通常授業のように指導担当者により、予め設計されたスケジュールのうえで課題進行をおこなう……という受動的な形式ではありません。したがって課題文やシラバスの類いは存在しないことが大概でしょう。

卒業制作のテーマや課題、目標というものは各自で適切なものを任意に設定する必要があります。またそれに付随して、年間のスケジュールも各自で設計・管理してゆく必要があります。ですので成果物の質や進捗状況は自己責任に大きく委ねられるものになります。この点、卒業制作に臨むひとは、あらかじめ自覚をしておく必要があります。

制作物が完成することは、大前提としてもちろん重要なことですが、そこへいたる過程こそが将来の糧となることは間違いありません。自己投資ができる貴重な時間。気になること・追求したいこと——身体化したいもの——それを身にするため学校生活最後の一年間を費やしてほしいものです。

3: なにをテーマとするか?——いま、それをおこなうことの意義
なにより、卒業年次の一年間という長期間のなかで、取り組み、追求するに足るテーマおよび目標値の設定が必要です。いま現在の学生、そのひと自身が「それをやることの意義」を熟考する必要があります。

成果はもちろんのこと、テーマの着眼点、それにはじまるプロセスもまた、自身を成長させる重要な要素です。各々にとって的確で、適切な解答を期待したいものです。いま、おなじ時代——文化・文明を過ごす同世代のなかでの、唯一性を育んでゆく時間といえるでしょう。

 ● 自分自身をとりまくものの認識
 キーワード: 社会・文明・文化・時代・環境・歴史など

4: 自分自身の立ち位置の自覚
どんなに普遍的なテーマやアイデアでもそれを丁寧に展開・編集、試作、スタディを繰り返すことで当然、精度は上がってゆきます。こうしたところは、時間をかけて取り組める卒業制作の強みであるといえるでしょう。自身の個人レヴェルで「つまらない」「もっといいものがありそう」などと、早急な判断をおこなわないこと。きちんと意図を指導担当者や同僚たちに相談し、熟考する必要があるでしょう。思いつきよりも、成熟させることが大切です。

 ● スタディを繰り返すこと
 なにごとも共通することですが、繰り返し鍛錬することで精度は上がってゆきますし、自分自身に身体化された、唯一性を持つものとなってゆきます。いわゆる巨匠たちの名作を例にはなしをすすめてみます。たとえばミケランジェロ・ブオナロティ(1475-1564)の代表作『ピエタ』は、おなじタイトル、テーマで複数制作されていることが知られています。新進気鋭の時代であった25歳に取り組んだもの、遺作となった84歳のものが著名なものです。こうして、ひとつのテーマを発展させることで、その人物のキャリアにおける代表的な仕事となるケースは、もちろん美術の世界以外でも散見されます。ピアニストのグレン・グールド(1932-1982)はデビュー作(1956年)と遺作(1981年)はおなじヨハン・セバスチャン・バッハ『Golrberg Variationen』をとりあげていますし、ヴァイオリニストのギドン・クレーメル(1947-)もまた1980年と2002年にヨハン・セバスチャン・バッハ『The Sonatas and Partitas for Violin solo』を録音しています。

こうして、彼らが生涯のなかでかけた時と比較すれば、卒業制作はわずか一年というごくごく短い時間となります。しかし、そのなかでも何度もスタディを繰り返し、おおくの試行錯誤に挑戦することが、精緻な完成、洗練につながることは間違いありませんし、ひいてはそれがその後、自分自身の礎となることでしょう。

5: 歴史をまなび歴史にまなぶこと
ウェブをはじめ、過去の歴史やアーカイヴを調査する方法はたくさんありますし、これを期に美術系・デザイン系の学生が食わず嫌いをしがちな、調査研究を経験してみるのもいいかもしれません。

歴史というと、大昔のことを想像してしまうかもしれませんが、いま、この瞬間にいたるまでの過去すべてが歴史です。ウェブなどの電子媒体をはじめ、書物や機関誌・雑誌、論文などの図書資料はもちろん、展示や店頭をはじめとした空間や場、実際の人物などなど……調査研究する方法はさまざまあります。したがって、相当量の関係資料にあたる覚悟が必要です。とくに自身のテーマと類似したものは入念に調査し、差別化をはかる必要があります。五体をつかって、これまでの過去を理解しながら、いまと未来を見据えてゆく必要があります。いま現在、その『卒業制作』をおこない、発表する意義を明解にすることが大切かもしれません。

歴史をまなび、歴史にまなび、次の時代へ引き継いでゆくこと。その時間軸や規模は、ひとそれぞれではありますが、過去と未来のあいだに、現在の自分自身がいることを意識することが大切です。

6: 卒業制作の指導について——指導は指導にあらず
機関や指導担当者により、差こそあれど、基本的にここでは How to 型の授業指導はおこなわれないでしょう。あくまでも自己研究・進行管理となります。講師はそれぞれの専門分野の知見から意見・助言をおこない、プロジェクトの監督役といえる立ち位置と捉えていいはずです。通常授業における、講師と受講生の主体性の割合は反転するくらいのイメージで臨んでください。ですので、自身が取り組む課題・テーマにおいての基礎的な物事を習得してゆくのは、あくまでも自分の担当であり、責任であることを認識していいでしょう。それは指導者や研究室が、ある種の「協働者」となる瞬間かもしれません。教わるだけの立場ではないタイミングといえます。

7: プレゼンテーションとしての展示であること
大抵の卒業制作は卒業制作展などとして、展示公開されます。展示そのものをプレゼンテーション捉えることも必要でしょう。ただ制作したものを並べるだけではなく、必鑑賞者へ明解に内容がつたえられるよう、展示自体もプレゼンテーションとして、意図的にデザイン・設計してゆきましょう。

(*もともとこの文章は、自分自身が担当する生徒へむけ作成したものです。そのため汎用性のある内容ではないかもしれません)
写真はウンベルト・エコによる『論文作法』(谷口勇 翻訳, 而立書房 1991)


16 March 2018
中村将大


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