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ストーリーとナラティブ【エビデンスを使う③】
この記事は、ストーリーとナラティブってどっちも、物語ってことなんだけど、両者の意味はちょっと違うかもねっていうことを、くだらなく語る記事です。
それがエビデンスとなんの関係があんだよって思うかもしれませんが、あるんです。
ストーリーとナラティブって、両方とも普段わかった気でいてなにげなくつかっている言葉ですよね。
でも、ナラティブってなんですか?って聞かれたり、ストーリーとなにが違うんですか?って聞かれてもはっきりと返答するのって難しいんじゃないでしょうか。とくにナラティブについては、ちょっと哲学的な意味を含んで使われることも多い言葉です。
そんなようなことを、ストーリーとかナラティブってものを極端に示していそうな例から考えます。
開高健「史上最短の民話」と、6文字小説
開高健 大兄の講演録に「史上最短の民話」と題される話があります。以下は、その講演の要約です。
友人の言語学者夫婦が、喜界島だか沖永良部島だかに住み着いて、土地に伝承される民話を収集していた。滞在最後の日、隣のおじいさんにお別れを告げると、
「家かえって戸を開けたらこのくらいの長い虫がいました」という。
なんかの報告かとおもって、「はあ、そうですか」といったが、よくよく聞いてみると、これが、民話だとのこと。それっきりの民話。
それを聞いた言語学者は、「人類数千年の言語活動は一挙にひっくり返された思い」になってかえってきた。
一方、6文字小説っていう有名なやつがありますね。一説には、ヘミングウェイが飲み屋で即興で書いたとかいわれています。
For sale: baby shoes , never worn.
(売ります。あかちゃんの靴。未使用。)
虫の話は、家の戸が開き、視線を移すと、部屋の中に虫がいるっていう光景が浮かびます。でも、「だからなんだよ」って感じですね。
靴のほうの話は、場面が浮かぶには情報が少なすぎるけど、なんか靴流通センターとかトレファクの話ではなさそうな・・悲しい話がありそうな気にさせられます。
両方とも民話とか小説っていってるから、物語といっていいんでしょうけどね、だいぶちゃいますね。
虫の話について、「だからなんだよ」っていうのは、意味の空虚さを指摘してるわけです。もちろん、これがほんとに実在する民話だとしても、大兄の創作だとしても、それは意図的であるはずですけどね。ほとんどの人は、この民話からは、意味を感じられないはずです。
一方、ベイビーのやつを読むと、感情は動かされるけど、いつ、どこの、なんの話なのかわからない。
私は、この2つの話に触れたとき、なんなんだろうなって、なんとなく頭に残り続けていたんですけど、2つの話を対比して、ストーリーとナラティブの違いって区分けすることで、なんとなくしっくりきました。
ただ、この違い、および、物語との関連を調べだすと、言語沼に入り込んでしまうことがわかりました。しかも、私は英語はいまだにピコ太郎で勉強してるレベルなので、調べ物をする勘も働かないので、結局は浅い考察しかできないし。
そんな中で書いても、ゆる言語学ラジオの最下位互換をして得意になってるようで惨めになるので、ごくごく簡単な説明にとどめて、引用すらしません!大学教員の鑑!
ストーリーとナラティブの説明を雑にやっちゃれ!
ストーリーってのは、空間と時間の流れで成立していて、一方、ナラティブっていうものの本質は、意味付けってことなんですって。
だからストーリーってのは、「今日ね、朝起きてね、おかあさんに、おはよーっていったよ」みたいな事象の連なりなんです。だから、虫の話ですね。
それで、ナラティブっていうのは、「そしたらね、お母さんがね、僕をいきなりぶったたいてきてね、いつまで寝ているんだ、このクソ野郎って言うんだ、ぼくはね・・」ってこんな語りになるわけです。なんらかの感情とかが伝わってくるので、6文字小説ですわ。
それで、日本語にすると、両方とも物語って訳せるんだけど、ものがたりの、「もの」って、古代からある日本語で、霊魂とかも含めた、ありとあらゆる「もの」なんですって。ですから、物語って、ありとあらゆる語りってことですわ。
だから、物語っていうと、伝説も民話も歴史もポエムもストーリーもナラティブも全部物語って言えちゃうんでしょうね。日本語ってすごいですね~。なるほどな~。なるほどな なるほどなるほど なるほどな。
ストーリーにナラティブ、ナラティブにストーリー
じゃあ、あちらさんでは、ここら辺ちゃんと弁別できているの?ってことについては、管見(かんげん)の限りですが、一部ごっちゃになっているように思います。
私は、エビデンスのことを調べていた時、その混同に起因することに、けっこう苦しみました。エビデンスの中にナラティブがあるとかいって。
ストーリーとナラティブの混同がおきてしまうのは、両者の関係性なんだと思います。つまり、ストーリーの中にはナラティブがあるってこともあるし、ナラティブの中にストーリーがあるってことも当然ありますよね。普通は、ごっちゃになって存在しているわけです。
だから逆に、虫の話は、「ストーリーからナラティブをそぎ落としてみた遊び」っていうおもしろさで、ヘミングウェイは、その逆で「ストーリーのないナラティブやってみた」っていう面白さなわけです。
ほかにもたとえば、ナラティブアプローチっていうのでは、ドミナント・ストーリー とか、オルタナティブ・ストーリーってあるでしょう。あれ、なんで、ドミナント・ナラティブじゃないのかとかって、考えたことないですか?
私の勝手な解釈では、物語を書き換えるために、敢えて、感情とかの意味付けを取り除いた、テクストとして扱いたいっていう意図があるんだと思いますよ。なんの文献的な根拠もありませんけど。
提唱者のエプスタインに手紙書いて聞いてみようかな。「アイ ハブ ア ペーン」って笑
ようやく、エビデンスとの関係
エビデンスの話でも、この混同が、なにげに大きな問題をはらんでいるとおもっておるんです。
ときどき、実験的な臨床研究を行って、統計的に有意だったってことになると、「うん、これは効果があるんだ」っていっちゃてる言説をみかけますよね。うんこ令和効果があるなー、じゃないですからね、まったくもう。
効果が科学的に証明されているんですよ、とか胡散臭い言い方もその一つです。「すご~い、あたしも一つほしい~、社長おいくらですかぁ?」とかいってね笑 今なら半額なんです。
でも、臨床研究の知見っていうのは、たとえば、「AがBにCという影響を与えたよ(それは、どうも偶然ではなさそうだ)。」っていうことだけです。
だから、虫の話といっしょだと思いませんか? つまり、いわゆる客観的なデータっていうエビデンスの中にはストーリーはあるけど、ナラティブはほぼないってことです。
これは、けっこうその界隈では、危ないことを言っています。いっときますけど、反論は受け付け・・・ていませんからね笑
それに対して、これは効果があるな、とか、「すご~い、おやす~い、社長、ありがと」とかっていうのは、支援者なり、臨床医なり、対象者なり、謎の演歌の人の意味付けっていえますから、ナラティブです。
ナラティブである以上、その意味付けをする人の分だけ、たくさんの意味付け方があっていいわけです。つまり、科学的知見を根拠にして、みんなの意見をオートマチックに統一させるってことは原理的にいってできません。
逆説的に、臨床における支援者がエビデンスの効果性を判定するときには、その判断が自分のナラティブ(=主観)であるからこそ、より多くの人に役に立つ、意味付け方を習得しているってことは、自分の専門性なんだって思っておくのが正しいと思うのです。
最後いいこと言えた~。
まとめ
エビデンスっていうと、「効果がある」っていう認識まで導いてくれているとおもうでしょ?ちがうんです。「効果がある」っていう判断の根拠になるかもね、ってことなんです。
けっこう間違えやすいんですけど、統計学でいう、効果って、数値の変動のことを指しているので、「元気になった」とか、「良くなった」っていう実社会でいう、効果っていう意味ではないですからね。何度も言いますけど、それはナラティブが含まれる話なんです。
リアップで髪の毛が1000本生えるってことが仮に、実証されたとして、波平の頭に1000本髪が生えたところで、ハゲっていう事実は全く動かないはずです。
だから、臨床研究の論文で「効果が示唆された」ってみて、「じゃあ、これやればよくなるんだ~」って単純に思ってはいけません。
私は、こういうところにも人生の要諦(ようてい)につながる何かがあるとおもって、鼻くそほじりながら生きてますが、いかがでしょうか。
この記事、わたしが文章を書き殴ってるだけに過ぎないんですけど、書くの手こずりました。
わたしは、noteをやってるのは文章修行の一環っていうのが一つの理由で、一撃で完登縛りってのを課していますが、この記事は15回くらい失敗しました。数えてないですけどね。
ちょっとテーマを盛り込みすぎたのかもしれません。なので、もしかしたら難しかったり、読みにくいかもしれず、すみません。でも、無料ですからね、ゆるっしゃたもんせ。
この記事は 「介護老人保健施設の退所支援におけるソーシャルワーク」のp39~42 「エビデンスとナラティブの統合」をもとに書いています。