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【現代ホラー異聞録(2) 山神の血印 ~クチヅタエの村~】(1話目/全10話)

訪れるもの 1

 八月の半ば、冷房の利いたリビングにテレビから流れるワイドショーの笑い声が空々しく響いていた。

 石原一美は、トレイに乗せたお茶とお茶請けのよもぎ団子を、そっとローテーブルに置いた。

 よもぎ団子はこのあたりの地域でよく作られている。
 大きさは一口大、真ん中が少し潰れて平たい形をしている。
 団子自体には砂糖を入れず、ひとつまみの塩とたっぷりの砂糖をきかせたきな粉をまぶして食べる。 幼い頃の息子の好物でもあり、一美もよく作ってあげていた。

 今日のよもぎ団子は近くの山にある神社に住み込んでいる萩沢が息子の旭への見舞いで持ってきてくれたものだ。

 なにかと迷信深いこの地域では、よもぎ団子は悪運を祓うとされているらしく、事故や病気見舞いの定番だ。

「はい、お茶入ったよ」

 一美は笑顔でそう言いながら、つい息子の様子を窺ってしまう。
 旭は、落ち着かない様子で不自然なほどソファの端に座っている。
 さっき、萩沢に挨拶をしてから旭はまたひどく塞ぎ込んでしまった様子だった。
 自分から出てきたから話をさせたが、やはりまだ人前に出すのは止めるべきだっただろうか。

 一美は、また自分の判断が間違いだった気がしてならない。

 旭はまだ痛々しく包帯の巻かれた右腕をお腹に抱え込むようにして、何かから身を守るように背中を丸めている。

 社会人として立派に働いていたはずの二十五歳の息子ではなく、ひどく叱られて落ち込む幼子のような頼りなさと哀れさを感じて、一美はざわざわと自分の胸の底が不安と焦燥で波立つのを感じた。

 しかし、その波を決して面に出してはいけない。
 仕事のストレスで自分の右手を切り落とすほどにまで心を病んでしまった息子のことを、カウンセリングを担当した医師はとても繊細で周囲の視線に敏感な性質だと言った。

 確かにそんな傾向は幼い頃からあった。
 
 同年代の子に比べて少しだけ成長が遅かった旭は、他の子達にからかわれたり仲間外れにされることが多かった。そんな時に、近所に住む同い年の幼なじみ、六山勇郎が仲良くしてくれたのは一美にとってもありがたかった。中学までの旭は、勇郎の後ろに隠れるようにしてついて回っていた。

 しかし、勇郎を頼もしく思うほど、息子のひ弱さが気にかかった。
 男の子なんだからもっと強くなってもらわないと将来が大変だと思い込んでもいた。だから、旭が泣きついて来たときは心を鬼にして、勇郎くんを見習いなさいと叱ることもあった。

 カウンセリングの医師に愛着障害について説明された時は、自分の子育てが間違っていたのかと目の前が真っ暗になった。

 よかれと思ってしたことが息子を追い詰めたのだと思うと、後悔してもしきれなかった。しかし、過去はもう取り返しがつかない。

 自分の過ちが息子から利き手を奪うことになったのなら、今度こそ自分がしっかりと息子の面倒みて育て直してやらなければならない。

 医師は、旭が右手を切ったり体に傷をつけたのは突発的な強いストレスによる衝動的なものだと言っていた。

 長時間の過重労働による不眠やうつ傾向が重なった不運な出来事で、入院するよりは安心できる自宅でしっかり休養して心と体のバランスを取り戻すことが重要らしい。

 息子が精神病院に閉じ込められて薬漬けにされるのではと思って心配だった一美は、家で息子を見守れるとわかって安心した。

 不安や重圧もあったが、家に戻った息子は、拍子抜けするほど暢気な様子だった。怪我の痛みや利き手が使えない不自由さを嘆くことはあっても、精神的な不安定さはそれほど感じなかった。

 しかし、いまの息子の様子は変だ。
 いままでも物思いに耽るようにぼんやりしていることはたびたびあったが、いまの旭は何かに怯えているように見える。

 変化の原因はやはり萩沢だろうか。
 そういえば、息子を追い詰めた職場の上司は萩沢と同年代の男だ。
 萩沢を見て仕事の事を思い出してしまったのかもしれない。

 あの年代の男とは接触しないように注意するべきだ。一美は心の中で旭の取り扱い事項にその点を加えた。

 表面上はなにも気にしてない風を装って旭の斜め向かいに座り、団子を頬張った。

「んー、美味しい。瓶子のおばあちゃんが作ってくれたのが一番好きだったけど、萩沢さんのは香りがすごいわね。冷凍じゃなくて生の葉っぱ使ってるのかな。お山の上の方はまだ涼しくてよもぎも若いのかもねえ。ほら、旭も食べてごらん」

 にこにこと声をかけると、旭はふいに何かに気づいたように顔を上げた。
 その目の異様な暗さに一美はぎょっとした。
 旭は、骨張った左手でよもぎ団子をひとつ掴んでリビングの掃き出し窓へ向かって投げた。

 一美は驚いたが、反射的に口をつぐんで息子の様子を見守った。

 医師から、旭が動揺している時は冷静を保つようにアドバイスを受けていた。
 不安定な患者の言動にいちいち影響を受けていると身が持たず、共倒れになる可能性もあると言われていた。

 息子が奇妙な言動をしても感情的に反応せず、落ち着いて対処しようと覚悟を決めていた一美は、なんでもない事のように旭へ言った。

「ちょっと、豆まきの豆じゃないのよ? ああ、ほら、きな粉まみれになっちゃったじゃない」

 冗談ぽく笑って見せたが、息子は皿に残っていた団子もわしづかみにして窓へ投げた。

 利き手ではないせいか、団子の大半はうまく飛ばずにソファやラグに落ちた。
 すると旭は空になった皿にまた手を伸ばし、そこに団子がないとわかると、焦ったように手近に落ちていた団子を拾って自分の口に押し込んだ。

 さすがに一美の笑みが引き攣った。

 怒鳴ったり暴れたりといった奇行は想定していたが、この行動はなんなんだろう。
 ストレスや過労によるうつでこんな行動をするのだろうか。
 まさか本当はなにか精神的な病なのではないか。
 そんな可能性が頭に浮かんで鳥肌が立った。

 しかし、動揺してはいけない。
 息子は一時的に参っているだけだ。
 辛抱強く見守ればまた元のように社会人として働いて自立できる。
 一美は声が震えないように気をつけながら、朗らかに声をかけた。

「あのね、旭? ほら、お母さんの分まだあるから。ね、こっちを食べたら?」

 すると旭は一美の差し出した皿をじっと見つめ、何かに気づいたような顔をして、きな粉で汚れた窓を見つめた。

 やがて旭は一美の皿を手に取り、まるで窓の外に熊か何かでもいるかのようにひどく警戒した様子で外を窺いながら自分が投げた団子を拾い、まだ手つかずの団子がある皿に戻していく。

「片付けるの? じゃあお母さんが」
「いいから。座ってて。あと、あれは片付けなくていいから。絶対そのままにしといて」

 旭が固い声でぴしゃりと言って、窓際に落ちているひとつの団子を指さした。

「ええ? なんで? だって片付けないとベタベタになっちゃう」
「いいから。動かさないで。必要なんだから。玄関とか、他の窓も全部、必要だから」

 そう言いながら旭はキッチンの窓へ駆け寄った。窓枠に団子をひとつ置くとすぐ玄関へ走り、ドアが当たらない位置へ一つ置く。
 それから家中の窓の近くに団子を置いて回った。
 トイレの小窓のところにまで置かれた。

 一美は、いったい何を考えているのかと息子を問い詰めたい衝動を必死で抑えた。

 家中の床に散らばったきな粉の掃除を考えるだけで気が塞いでくるが、それ以上に気になるのは息子の行動だ。

 手持ちの団子を置き終えた旭は、まだそわそわと不安げな様子でスマホを弄る。
 団子だけじゃ弱いかな、などと呟いて何かを調べているようだったが、やがてまたキッチンへ向かう。
 
 今度は何をするのかと思えば、塩をありったけの小皿に盛って、あちこちに置いた団子の横に置き始めた。

 盛り塩のつもりなんだろうか。
 そう思い当たると、一美は少しだけ納得した。

 この辺りの地域は昔からああいう迷信を伝統だと言って四季の行事や祭りに取り入れている。

 一美自身は何の効果もない古い考えだと思っているが、近所付き合いのために参加せざるを得ず、旭も幼い頃からそういう光景を見ている。

 恐らく、不安定になった心を落ち着けようと必死なのだろう。

 旭は、最後に自分の部屋の前に塩と団子を置き、夕飯はいらないと言って自室に籠もった。

 盛り塩は悪いものを寄せ付けないようにする結界だと聞いたことがある。

 一美は、自分まで悪いものとして旭の安全圏から弾き出されたような気がして寂しかった。

 夜になり、帰ってきた夫に今日の旭の行動を話した。
 夫は、少し旭と話してみると言って息子の部屋へ行った。

 夫の恭介は日頃は無口だが、何かあれば率先して動いてくれる頼もしさがある。
 きっと旭をうまくなだめてくれる。
 期待して待っていると、二人が部屋から出てきた。
 なぜか旭がボストンバッグを抱えている。

「ちょっと萩沢さんの所に行ってくる」
「え? なんで?」
「大丈夫、すぐ戻るから、待っててくれ」
「ちょっと待ってよ、なんでよっ?」

 思わず大きな声を出したら、旭が困ったような顔で恭介を見た。
 まるで助けてくれと言っているような顔だった。
 一美は、笑みを浮かべて取り繕った。

「行くなって言ってるわけじゃないからね。理由を聞きたいだけだから」
「帰ったら説明する」

 恭介は日頃の温和な雰囲気とはまるで違う強ばった顔でそう言い、旭を連れて行ってしまった。
 逃げるように出て行く二人を見送った一美は、自分もついて行けば良かったと後悔しながら帰りを待った。

 やがて日付が変わる頃になり、夫だけが帰ってきた。

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