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9/11と街の記憶

今日は9月12日。昨日は9月11日。そう、9/11だ。もう22年も前の出来事だけど、昨日のことのように覚えている。今日、同僚と少しこの話題に触れて、当時のことやもっと昔のことを話したらいろんな思いが溢れてきた。忘れないうちに少しその思いたちを書き記しておこうと思う。

まず初めに、9/11が起きたとき、私はアメリカにはいなかった。日本の、東京に住む普通の学生だった。ではなぜこの事件が私にとって大きな意味を持つのか。それは、倒壊したWorld Trade Centerの高層階でかつて父が働いていたから。私もその高層階のオフィスに行ったことがあったから。多感な子供時代の数年間を私がマンハッタンの郊外で過ごしたから。そして奇しくもこの翌日9/12のフライトでアメリカ旅行をするはずだったから。

色々な要因が重なって、この日は忘れられない一日となった。テレビに映ったビルの映像はいろんな意味で衝撃的だった。私の旅行はもちろんキャンセルになった。そしてその晩は夜中になっても現地から父への緊急連絡で自宅の電話が鳴り続けていた記憶がある。

数年後にアメリカ旅行をしたとき、私はあえてニューヨークに寄って、跡地を見に行った。とにかく一度行ってこの目で見なければいけない、という思いに身を任せて。そんなことを同僚に話したら、その同僚も跡地を見に行ってなんとも言えない気持ちになった、と、そしてニューヨークでバスに乗ってセントラルパークあたりからバッテリーパークまで街の景色を眺めるのが好きだった、と昔話をしてくれた。

それを聞いて、自分の中のニューヨークの思い出を探ってみたら、すごくたくさんの、いろんな色や形や手触りの記憶が溢れてきて心が震えた。

子供の頃の思い出、高校生で1ヶ月ほど滞在したときの濃密な記憶、大学生や社会人になってから旅行で訪れたり出張で行ったりしたこと、街で出会った人たち、再会した友達、見た景色、聞いた音楽。無限に湧きでる泉のように、そっとしまっておいた思いが溢れた。

全ての思い出には感情が結びついている。その感情までもが生々しく蘇ってきた。時代や、私の年齢や、状況によってそれは喜びだったり、恐怖だったり、哀愁だったり、ありとあらゆる感情がそこには存在している。9/11より前の記憶もあれば後の記憶もあるけれど、そういうのがすべてごちゃ混ぜになってニューヨークという街が存在していて、あの事件はその全てに対する攻撃だったような気がする。

私はニューヨークを特に好きだと思ったことはない。どちらかというとほろ苦い思い出が多くて、同じアメリカでも大人になってから詳しく知ったサンフランシスコの方が思い入れがあるのかな、という気がしていた。でもフタを開けてみたらこんなにもたくさんの記憶のかけらが出てきて、ニューヨークという街の存在の大きさに気づき、愕然とした。

極めて個人的なまとまりのない内容になってしまった。
今振り返って見ると、9/11をきっかけに世界は変わってしまったと思う。残念ながら世の中は悪い方向へ進んでいる気がしてならない。私は昔も今もあらゆる戦争には反対だ。正しい戦争なんていうものは存在しない。私が心から求めるもの、それは世界平和なんだと思う。私が言うと薄っぺらく聞こえるのはわかっている。それでもやっぱり私の願いは世の中が平和になること。戦争がなくなって全ての人が平和に暮らせることを心から願う。


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