迫りくる獣
何故こうなった……。俺は心の中でそう呟きながら、農道を全速力で走った。
一応、運動部とは言え、走るのが苦手な俺は既に疲れ果てていて、足が止まってしまいそうだった。
だが、ここで止まるわけにはいかない。もしそうしてしまえば、確実に追いかけてくるそれに捕まるからだ。もふもふとした可愛らしい姿とは裏腹に、鋭い爪とものすごいスピードを出して追いかけてくる。あんなのは、可愛いを通り越してホラーだ。まさに、捕食される側と捕食する側だ。
そもそも、何でこんなことになったんだ? どこをどう間違えてこうなったんだ?
部活が急に無くなり、さてどうしようかという時に友人から一緒に走らないかというお誘いが来たのだ。正直、気は乗らなかったが、今週は体動かしてないことを思い出し、その誘いを受けた。
ただ、誘ってきた友人はうちの大学の駅伝の選手だ。球技は得意でも走るのが兎に角苦手な俺が追いつけるわけがない。故に、楽しいけどお誘いを受けたのは間違いだったような気がしている。
現に、誘ってきた友人には農道に置いてけ堀にされたうえに、疲れてペースが落ちてきてしまった。
そんな時、それらは現れたのだ。いや、落ちていたという方が正しいか。
もふもふの毛玉が道で伸びていたのだ。驚いて、よく見るとゴロンとしていたそれが、ビー玉のようなものをこちらに向けてきた。どうやら、もふもふの毛玉は猫だったらしい。それも、警戒心皆無のへそ天で、大量に。
それだけなら、まだ可愛いいで済ませられるのだろう。伸びているところに近づいても逃げようとはしなかったし、こちらに危害を加えるような動作もなく、ごろごろしているだけだった。普段餌付けでもされているのかなあと、首を傾げつつ再び走り出そうとしたその時である。
愛らしくごろごろしていた猫たちが、寝ていたのにも関わらず、獲物を見つけたハンターのように、なかなかのスピードでついてきたのだ。
しかも、落ちていた数より毛玉が増えているように見える。
低いうめき声と剝き出しの鋭く光る牙。小動物相手に大袈裟な気はするが、身の危険を感じて、出来る限りの全速力で離脱を試みる。
しかし、毛玉の獣たちは、振り切れるどころか数を増して追いかけてくる。それも、どこから出てきているのか、突然現れては、俺を追いかけてくる。
こうして、大量の猫という名の毛玉みたいな獣に追っかけられながら農道を全速力で走っている男子大学生というシュールな絵面が完成してしまったのだ。
何も悪いことはしていないのだけれどなぁ。言い訳を頭の中で繰り返しながら、背後から迫る恐怖から逃れるため走る。
だが、どこまで行っても振り切れなかった。
本当に何故、追いかけられるのかが全くわからない。
ふと、俺の脳裏に、猫にまつわるトラウマがよみがえった。
あれに関しては、俺も悪いのかもしれない。近所の猫が遊べと絡んでくるので構い倒したら、何故か鋭い爪で引っかかれ、更には、獣のような牙で思いっきり噛みつかれたのだ。そのせいで、正直今でも猫は少し怖い。
だが、それも今回の比ではない。今現在起きているこの現状の方がよっぽど怖い。
どれだけ逃げても追いかけてくるなんて、ゾンビ映画のゾンビやホラー映画の悪霊並みではないか。突如思い出したトラウマとホラー映画の要素が加わって余計に怖い。
周りが見えなくなるくらい、必死に逃げ続ける。
だが、そんな逃亡劇はあっけなく終了した。
逃げ込んだ先が行き止まりであり、更には、全速力で走っていたため、急には止まれずに、勢い余って転んだ。
――ここまでか……
地面に倒れこむ衝撃に備えようと身構える。
が、予想していた衝撃は来なかった。
その代わり、もふっとしたさわりここちと生温かい壁のようなそれに顔から突っ込んでいた。驚いて顔を上げると、視界一杯に白い毛皮のようなものが広がっていた。
訳がわからなくて、あたりを見回すと、何の変哲もない田畑が広がっており、ホラー映画のごとく追いかけてきていた毛玉の獣たちは消えていた。
呆然と立ち尽くしていると、壁だと思っていたそれがむくりと動き、巨大な丸に三角形の耳のようなものを付けたものが、こちらを向いた。恐らく、振り向いたというのが正しいのだろう。黄緑色のビー玉のような二つの球体が俺の間抜けな姿を映した。
その姿は、先程まで俺を追いかけていた毛玉の獣たちによく似た姿だった。
巨大な猫のようなものは、ゆっくりとオメガの形をした口を開き、鋭利な刃物より鋭く光る牙とザラザラとした口内を俺に見せつけた。
絶対に食われる……。逃げようとしたが、身体が思うように動かない。
そして――
――口を全開にあけ、みゃあという間抜けな声を上げながら欠伸をし、なんやお前と言わんばかりに一瞥した後、興味なさげにどこかへ立ち去って行った。
***
「っていうことがあってさあ…… 」
「はぇえ……大変だったねぇ、面白いけど」
週の真ん中の眠たい昼下がり。どうせ家にいるのだから、ゴロゴロしていたいが、大学生そんなに暇ではない。ましてや、オンラインで仲のいいオタク気質な女子とダラダラ喋っているほど暇ではない。
新型の感染症が流行しているため、家でオンライン授業を受けているだけであって、暇ではないのだ。
しかし、これが授業ではなく、ゼミとなると心理エクササイズというなの緩い雑談があったりする。さらに言えば、猫のような獣に追いかけられた話をしたのも、エクササイズの一環であり、怖い話をしようとしたわけではない。猫は怖かったが、走るのが案外楽しかったという話から派生したものである。
最も、画面に映る髪が少し長い唯一のゼミの仲間であるこの女は怖がるどころか面白がっていた。正直、笑ってもらえることで多少は救われるが、同時にムカついてしまうのは間違いではないだろう。
幸い怪我とかはないから笑い話にしてくれて構わないのだが、少しは心配しろよとは思う。
「まあ、怪我無くて良かったねえ、お陰様で小説のネタが増えそうだ」
にんまりと邪悪な笑みを浮かべて画面越しの相手はそういった。一応、俺の心配はしてくれているらしい。そう、一応。多分、ミジンコくらいの大きさでしか心配していないのだろうけど。
言わなきゃいいのに、一言多いんだよなあ。ぼそっとマイクが拾わないくらいの音量で小さくぼやきながら大の字に後ろに倒れた。
頭と手に触れた感触がやけにもこもこで、ほんのり暖かい。
「教授が今席外しているからって気を抜きすぎ、だらしない」
「別にいいだろ、教授が見ているところではちゃんとしているんだし」
流石に、教授がいる所でビデオをONにした状態でリラックスするほど愚かではない。だが、別にゼミの仲間 (と言っても、自分含めて二人)しかいないのに、気を張る必要はないだろう。
俺は、リラックスする権利を主張する、とくだらなく言えば、画面越しの相手がほんの少し呆れたような表情を浮かべていた。ただ、これ以上咎める気はないのか、別の話題に移っていった。
教授がなかなか戻ってこず、話題も付きかけてきたところでふと、彼女は何かに気が付いたようにそれを口にした。
「そういえば、そのクッションどうしたの? すんごい大きいし、モフモフしてて気持ちよさそう」
「あぁ、これ? 」
そう指摘され、違和感に気が付いた。
こんなデカいクッション、いつからこの部屋にあった? ゼミの開始前にはこんなもの、自分の部屋にはなかったはずだ。クソスペックPCのせいで、なかなか教室に入れず焦っていて、周りが見えていなかったので気が付いていなかった可能性はなくはないが。
だとしても、いつからこんなデカいものがあったのだろう。
柔らかい毛並みを撫でながら考えていると、クッションがモゾっと動き、クッションの先の方についていたのであろう丸いものがこちらを向いた。ピンク色の逆三角形と、その斜め上に左右対称になるように付いている黄緑色っぽいビー玉のような楕円。その中は細い縦線が入っている。ピンク色の逆三角形の周りには透明で硬い糸のようなものが生えていた。毛並みに触れている手に意識を向けると、自分以外の体温で生暖かく、それでいて、微かに脈打っている感触があった。
うわあ、と情けない声をあげながら、クッションもとい猫のような巨大生物から身を起こす。よく見ると、この前は知っていた時にぶつかったあの巨大な猫とよく似ていた。
パニックに陥っていると、何故か彼女は納得したように笑っている。
「嗚呼、なんだ、君も猫を飼い始めたのか」
金色の瞳に黒い縦線が入った猫のような目を細め、彼女は笑う。その真後ろにはいつの間にか同じ色の瞳を持つ巨大な黒い猫の顔があった。
ぶにゃあーと不機嫌そうな声が俺の部屋に響いた。
※画像は「みんなのフォトギャラリー」からお借りいたしました。