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生徒の休み時間を奪うな。

私の学校では休み時間がある。
これは多くの学校でも同じだろう。

私の学校では基本的に授業と授業の間には10分の休み時間がある。
給食のあとだけは15分と少し長い。
その時間に生徒はいろいろな活動をする。

例えば
・昨日見たテレビの内容を話し合う
・家に帰ったあとにどのような予定で遊ぶのかを話し合う
・読書をする

あげればキリがないが多くの生徒が楽しみな何も考えずに過ごすことのできる時間ではないだろか(休み時間こそ学校に行く意味という生徒もいるだろう)。

授業の方が楽しみな生徒は少数派で
休み時間の方が楽しいという生徒が多数派だ。

しかし休み時間に教師が生徒を呼び出す。
「課題が終わっていないから」という最もらしい理由で生徒の休み時間を略奪するわけである。

繰り返すが生徒にとって休み時間はとても楽しみにしている時間だ。
にも関わらずその時間を教師が奪うのである。

気持ちはわからなくもない。

なんとかできるようにさせてあげたいからその生徒を休み時間に呼び出すのだろう。

先生にとっては生徒の休み時間を奪い勉強をできるようにさせてあげるのが正義なのだ。

それがやさしさだと考えている。

誤解を恐れずに言えば
呼び出してあげているのかもしれない。

「勉強ができなければ進路選択に困る」
だから「勉強をできるようにさせてあげている」のかもしれないし

「課題をやっていない」あなたには「休む時間をあげません」という罰なのかもしれない。

真意はわからない。

いずれにしても悪気はないのだと思う。
ただ私は納得がいかない。

だからといって休み時間を奪いとる口実にはなるのだろうか。

これは「仕事ができない」から「お前は休み時間無し」な。
ということと同じ論理だ。

(教育現場は常に休み時間ねーよ!という声が聞こえてきそうだがそれが社会から見れば異常なのである。というかその感覚が今回の休み時間を奪うことを当たり前にしたいるのかもしれない。)

もちろん生徒も納得しないだろう。
正確に表現すれがば納得させられているかもしれない。
教師という大層傲慢な偽りの権威に従って。

呼び出されて面倒くさい。だるい。やりたくない。友達と話をしたい。

そういう思いをもちながら休み時間に教師のもとで勉強させられている。

果たしてそんな思いで勉強させられて
11歳〜15歳の貴重な休み時間を友人と過ごすよりも教育的に価値があるのだろうかと思うわけである。

10年後に休み時間に勉強して良かったー!ということが頭によぎるだろうか。
そもそも多くの教員は成績優秀で勉強面に関しては順風満帆な学校生活を送ってきているわけで
居残りや呼び出しなどの経験がないからそんな生徒の気持ちはわからないだろう。

ただでさえ勉強が嫌いだから
課題をやらないわけで
それを無理強いすれば
さらに勉強が嫌いになることは想像に容易い。

他にも問題点はある。

・休み時間に無理やり勉強させられて次の授業で集中できるだろうか。

・国語だけだから休み時間に勉強できるが他の教科もそのようなことを始めたらその生徒の休み時間はどうなってしまうのだろうか。

挙げればキリがない。

こんなことを書いていると
課題を出さない生徒は大人になっても課題を出さない。
そんな人間を育ててはいけない。
だから休み時間に課題をさせるのは合理的だ。

という人がいるかもしれない。

そこには重大な問題点がある。

長期的な視点だ。

厳しく罰を与えたり休み時間に課題を出させたりすればその生徒は課題を出すかもしれない。

しかし私は「課題を出させた」としても「課題を出すようにならない」と思っている。

「課題を出させた」としてもそれは一時的であり
出させたから出したのであり
自ら進んで出したわけではないということである。

端的に言えば教科担任や学級担任が変われば再び出さなくなるのである。

ここで次の教科担任や学級担任が悪いという意味のわからない現象に苦しめられる人が多数いるがそれは偽なので安心していいと思う。

生徒に課題を出す意味をロクに説明せず
ただ課題を出すという完全に手段が目的化している指導による弊害である。

それでも「いや,説明したぞ。」という人もいるかもしれないがそれが伝わって生徒に落ちていないのであればいずれにしても偉そうに喋る立場ではない。

というかそもそもそこまで変化させられると思っているのは相当な傲慢だと思う。

課題は出させても出すようにはならない。それは大人になっても同じである。

中学校3年間課題を教師の高圧によって出させても
誰かの圧力によってしか出せない人間ができあがるだけだ。

それでもいいならそれでいいのだが
教育の目的の「人格の完成」とはかけ離れていると思う。

だいたい課題を強制的に出させたとしても多くの場合,巧妙に課題を写すという妙技を身につけるだけであり社会では何の役にもたたないだろう。

だいぶ話が本筋とズレてしまったが話を休み時間へと戻して終わりとする。

休み時間は生徒の正当な権利である。
その名の通り休むための時間でありそれは必要だから設けられた。

これを先生が奪うのは越権行為ではないかと思うわけである。

教師は残念ながらというべきか
生徒をできるようにすることを過剰に追い求める傾向がある。

これはもはや呪いなのかもしれない。

もちろんできないよりはできたほうがいいがその方法には注意を払わなくてはいけない。

休み時間は生徒にとっては授業よりも大切な時間だから。

p.s.知らんけど

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