私が教員を辞めた理由
「先生ごめんなさい。今日は学校に行けそうにありません。」
確か電話でそんなことを言われた気がします。
当時私は初めての担任だったため
(そんなこともあるかぁ・・・)
なんていう風に軽く捉えていました(この考えは後に大きく改められます)。
そのときは生徒(以下仮名:勇気さん)の身に起こっているとんでもない大きな体の異変に全く気づいていなかったのです。
夏休みを境には勇気さんは学校に足が向かなくなってしまいました。
勇気さんは脳脊髄液減少症でした。
脳脊髄液減少症とは(Wikipediaより)
脳脊髄液減少症(のうせきずいえきげんしょうしょう)とは、脳脊髄液が脳脊髄液腔から漏出することで減少し、頭痛やめまい、耳鳴り、倦怠など様々な症状を呈する疾患である。日本の篠永正道らの医師によって提唱された新たな疾患概念であり、国際疾病分類には記載されていない。
当時のわたしはその病名のことを露ほども知りませんでした。
勇気さんとお母さんとは非常に長いつきあいでした。
入院した時は病院にお見舞いに行き自宅療養中は家庭訪問をしました。
1・3年時に担任をさせてもらい毎週金曜日にお伺いしていたのでおそらく家庭訪問の回数は累計50回に達するのではないでしょうか。
一緒に過ごした合計時間は24時間を有に超えると思います。
闘病生活はそれはそれは辛いものでした。
脳脊髄液減少症は人にもよりますが起き上がることもままならず極度の倦怠感が延々と続きます。
そして脳脊髄液減少症は体だけではなく心も蝕むのです。
何かをしたいのにできない。
周りの生徒は学校へ行き勉強しているのに自分はベッドで寝ているだけ。
誰にも理解されない。
孤独。
来る日も来る日もただ太陽が上り沈んでいくのを見ている。
自分はなんのために生きているのだろう。
いつ治るのかわからない。
自分の人生は一体どうなってしまうんだろう。
不安。
そんな話を私は何度も聞きました。
そこで私は自分の無力さを嫌というほど痛感しました。
学校の先生は生徒が学校に来てくれればなんとかなるものの
勇気さんのように学校に行きたくても行けない生徒には何もすることができないのです。
私にできることと言えば家庭訪問をし一緒にゲームをしたり馬鹿な話をしたりして勇気さんとお母さんに少しの笑顔を届けられることぐらいでした。
脳脊髄液減少症はインフルエンザの薬のような決定的な治療法が存在しません。
生食パッチやブラッドパッチなど一般的に効果があるとされているそれはつらい治療法をひたすら試すしかないのです。
現在勇気さんは中学の3年間という大事な年月を費やし辛い治療を乗り越え回復傾向です。
その勇気さんが闘病中唯一楽しみにしていたことがあります。
それは
タブレットを見ることです。
ベットから動くことができないためタブレットを触ることが唯一の楽しみだったのです。
だから私は「タブレットを通して授業をすること」ができれば勇気さんのような生徒もある程度学習できるのではないのかと考えました(もちろん無償提供)。
だから私がネットで授業を配信して見せてあげたいと思いました。
しかしそこには問題がありました。
それは単純に時間の問題です。
教員は一般的に多忙な職業と言われており月から金まで7時から19時まで働く。そして土日を部活に費やす。
授業を動画で撮影して公開する暇がないというわけです。
ここで私が結論を出したわけです。
「正規教員を辞めよう」と。
非常勤講師。
かんたんに言えば授業だけする教員になれば動画を撮影して一般的に公開できる時間を確保できると考えました。
それで即日校長にその旨を伝え令和2年度3月いっぱいで公務員から離れることを決めました。
これが平成30年の7月ぐらいですかね?
ちなみに平成31年の3月で辞めても良かったんですけど校長先生にお願いされましたのでもう一年続けました。
そこから中学三年の担任をやらしてもらって今日に至るわけです。
これが私が正規教員を辞めると決意した理由です。
そして同時にこれからやっていくことのビジョンでもあります。
といっても簡単に言えばYoutubeに中学校数学の授業動画というか講義動画をひたすら更新していくというだけの話です。
一年間で大きな病がなければ300本程度動画を提供します(もちろんお金は一切とりません)。
それで少しでもそのような生徒が救われればと思っています。
しかし
辞めると決断してそして実際に辞めてあることに気づきました。
それは果たして生活費はどうするのかと言う問題です。
生活費は大丈夫なのか?
実は全く大丈夫ではありません(笑)
この辺は赤裸々にお話しておきます。
お金の話を教育はすっごい嫌う傾向がありますがあえてちゃんと話します。
まず現状貯金はほとんどありません。
結構やばいです。
パソコンとカメラに投資をしてしまいました。さらに来年の保険代が30万ぐらいかかりましたのですっからかんです。まさにZERO。
ちなみに私はパートナーもおりますし息子もおります。
さらにまもなく二人目が生まれます(オメデトー)。
毎月の支払いも結構ありまして家を買ってしまいましたので3000万以上の借金があります・・・
そして奨学金も借りておりましたので200万ぐらいの借金もあります。
つまり借金が3200万ほどあるのに教員を辞めるというわけですね(ワラエナイ)。
いわゆるバカタレです。
ええ。
どうやって暮らしていくかというと非常勤講師の収入で生きていくしかないということになります。
毎日もやし生活を覚悟しております(ツクシに感謝)。
それでもやっぱり家での学習をなんとかしたい
よくうちのパートナーもOKしてくれたなぁと思います。
たとえ私が毎日もやし生活(めっちゃ痩せそう)したとしても勇気さんみたいな生徒や塾に通いたいけども塾には通えない生徒さんに家で学習できる環境が整ってくれればと思いました。
やっぱり今の中学生は完全に動画ネイティブだし
我々よりも動画から情報を吸収する能力が高いと思ったんです。
さらに言えば自分の聞きたい授業がバシバシ見れるそんな環境であればおそらく生徒の学力は伸びていくのではと思ったのもあります。
実際どんな風になるかわかりませんがとりあえず走り続けてみようかなと思います。他にも色々ビジョンがありますがそれはまたの機会にお話したいと思います。
とにもかくにも金銭的負担を家庭にかけない形でなんとか授業を提供したいと思ったわけです。
自分の心配なんて露ほどもしませんでしたし考えませんでした(笑)
本格的にヤバそうですがまぁなんとかなるでしょう。
うん。
最後に自己紹介させて
はい。
ここまで読んで頂きありがとうございます。
最後に自己紹介させてください。
名前:ロマネスコ(本名はそのうちどうせ出ます)
属性:野菜
特性:フラクタル
ロマネスコの簡単年表
公立小学校時代
「口は災いの元」という巧いこといいました!的な名言を先生方から頂く。
公立中学校時代
「お前はそんなやつだと思わなかった。残念だ。」というドラマのワンシーンのような名言を先生から頂く。
公立高校時代
受験校を自ら決めてしっかりと示したのに「お前何考えてんだ?意味がわからない」とまさに「お前が意味わからんけど」な名言を先生から頂く。
国立教育大学時代
一年時
→滑り止めの大学だったため自己肯定感が地の果てまで下がる
二年時
→塾の講師として社員並に働く
三年時
→塾が公定歩合制で気づいたら最高月収が50万になる
四年時
→ゲームにハマり一日12時間以上ゲームをプレイ。一週間でゲームのプレイ時間が100時間を超える。塾講師としての時給は4000円を軽く超えるものとなる。睡眠時間4時間の生活を送り続けゲーム,塾講師,教員採用試験勉強と三足のわらじを履き続ける。ついでにブログにも手を出し月15万PVあるブログになって本業が何がなんだかわからなくなる。
教員時代
奇跡の一発で教員採用試験に合格し教師へ。現実は甘くなく出勤2日目に帰宅時間が25時になる。親に「居酒屋にお前は就職したのか?」と言われる。
勇気さんのような出来事が辞めるきっかけとなり正規教員を辞めて現在に至る。教員でのもう少し詳しいエピソードはおいおいどこかに書いていこうと思う。
フリーランス教師時代
収入がなくなり本気で野菜生活ならぬ「もやし生活」をすることを覚悟する。Excelで教員の業務改善を行いながら家庭での学習支援を行う。
趣味:けん玉
以上!
P.S.
ものすごーい長かったと思いますが読んでもらってありがとうございます。
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そしてできたら応援してあげてください。
今後ともよろしくおねがいします!
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