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「あめ3人問題」について雑魚教員が全力で検討してみた

はい。

というわけでどうもロマネスコです。

先日のこのツイートを見まして

そいでもってこのnoteを就寝前に見てしまいましたのでキーボードを叩いております。

まずもって断っておかないといけないのはこのnote正規教員を辞めてYoutubeで数学の講義している。そして学校で非常勤講師をしているへっぽこな教員が書いたということです。

批判はしていただいてかまいませんが言葉遣いが荒いのは勘弁して下さい。
メンタル弱いので。

そもそも誰にも読まれないのでそんな心配は無用かもしれませんがこの問題は結構Twitter界ではセンシティブな問題だと思いますから前置きしておきます(笑)

さて

このnoteの趣旨は私もめがね旦那さんのnoteを見てモヤモヤしたのでそれをただ綴っていきたいと思います。

的外れだったらごめんなさい。

めがね旦那さんのモヤモヤは以下です。

①助数詞の付け間違いや付け忘れはテストでは日常茶飯事
②助数詞は日常では曖昧に使われている
③そもそも文章題をする意味とは

これに対して順番に検討していきたいと思います。

「①助数詞の付け間違いや付け忘れはテストでは日常茶飯事」だからいいのか?

私はこれが結構問題だと思っています。

「日常茶飯事」だからいいのかという話です。

そしてもっと言うと「次から気をつけようね」で本当にいいのかという話なんです。
それで本当にアメの個数を求める問題で次からは「3個」と書けるのでしょうか。

正直私は小学校3年生の担任をしたことはありませんからどういった発達段階なのかわかりません。
ただ「あぁ間違えっちゃった!」「次からは気をつけようね」というレベルでは無い気がします。
その理由を以下に書いていきます。

例えば答えを「3」とかいた場合はひょっとしたら「うっかり(助数詞を)忘れちゃった。」だけかもしれません。
ここには児童との対話で確認作業がいりますけど。

しかし「3人」とかいた児童はどのような経緯で3人と書いたのかを検討する必要があると思うのです。

これは完全な予想でしかないわけですが(その児童の学力がわからないため)その児童はそもそも文章題で「文章を読んでいない可能性がある」と思うわけです(めがね旦那さんも指摘していますが)。

文章が読めない。もしくは読みたくないから。「分ける」というキーワードから割り算で解く問題だと予想し大きい数から小さい数を割った。

その結果数字がでてきた。

文章を見ると助数詞があった。
「人」だ。

だから答えの助数詞も「人」と書けばいいだろう

こういう可能性もある。そこで○としてしまうのは大きな問題では無いかと思う。
○をもらうと当然子どもはこの解法でよいと認識することになる。
✕だと指摘されればなぜ間違えたのかを検討するし先生に相談するかもしれないが。

これだと助数詞の間違いならまだしも単位を間違える可能性も出てくる。
「道のり,速さ,時間」という3つの単位がでてくる問題でつまずくことになるだろうし単位を正確に選択できなくなってしまうのではないのだろうかという危惧がある。

(逆に言えばそういう解法をしているが正解になった児童が一番危ういが)

文章題では文章から子どもに実際の場面をイメージしてほしいと私は常々思っている。

文字式に表す問題で

「20個のアメがある。ここからa(人)に2(個)ずつ分けたとき,残りのアメの個数を求めなさい。」という問題でよくある誤答は。

2a-20としたり,なぜか割り算が登場したりする。

これは文章だけを読み「キーワード」のみから立式をしたときの典型的な誤答だ。

実際の場面をイメージできていないことが大きな問題だと私は考える。
中学生なら「イラスト書いてみて」で結構この問題は解決する(小学生なら先生が書いてあげる必要があるわけだが)。

これが思考力かどうかは微妙なわけだが(そもそも何を評価するのかということによるが)すくなくともキーワードだけを読み取り,答えを短絡的に出している時点で子どもの思考は伴っていないわけでそれをやすやすと○にするわけにはいかないというのが私の意見だ。

というか正確に言うと今後の子どもの算数・数学の活動のために✕か△をつけてあげるべきだと思う。

もちろんこれを「読解力じゃないか!」という批判はあると思う。

しかし読解力がある程度はないと小学校高学年の問題が解けないのは承知の通りかと思う。
というか中学校いったら手も足も出なくなりそれこそ地獄が待っていることになる。

「②助数詞は日常では曖昧に使われている」けどアメのことを人と数えるのは一般的か?

見出しでほとんど私の言いたいことは書けていると思う。

確かに助数詞は日常曖昧に使われている。
めがね旦那さんが言う通りアメの個数を聞かれて「3つ」「3つぶ」「3個」とか言うだろう。

もし私が採点者ならこの辺はマルにするだろう。

それはなぜか。

一般的だからだ。
そしてここからアメの個数を答えていることが見とれるからだ。

非常に曖昧な基準と思われるかもしれないが「一般的」かどうかは非常に重要な視点だと思っている。

今回の問題だって一般的にアメを数える助数詞が「個」だからたまたま「個」が採用されているだけだろう。

めがね旦那さんは「採点基準のゆらぎ」ということで納得されたと書かれていたがこのケースでいうと本当にゆらぐだろうか。

ゆらぐケースがあったら知りたい。

「一般的にアメに使われている助数詞であれば○」これがゆらぐような解答があれば教えてほしい。

さすがに3(本)とか書いてきたらどうしてそう書いたのか聞いてみたい(笑)
「金太郎飴は本と数える」とか言われたら私なら花丸をあげてしまうだろう。

③そもそも文章題をする意味とは

はい。

ここからは私の持論を書いていきます。

文章題をする意味について考えるには文章題がない世界をイメージすればいいでしょう。

文章題がない数学,算数の授業はどうでしょうか?
私は全然おもしろくないと思うのです。

現在全国の中学校ではほとんどの授業で計算を扱っています。

中1 正の数(スウ)・負の数(スウ)
中2 式の計算
中3 式の展開と因数分解

全然おもしろくない。活用できませんからね。ただ並んでいる四則計算をひたすらこなしているだけです。

文章題が無いと学んだことを何に使うか実感できませんしそれこそ数学や算数がただの受験のための道具になってしまうんですよね。
私がやった授業で生徒が喜ぶ授業はやっぱり文章題でした(正確に言うと活用の授業かもしれませんが)。

文章題によって数学を学ぶ意味を少しでもわかってもらえればいいと私は思います。

私は数学を活用ありきの学問だと思っています(これも賛否両論ありそう)。

中3で言うと校舎の高さが何mか実際に太陽の位置や相似を利用して求める問題や米粒が10kgの米袋に何粒入っているかを予想して計算する標本調査。

中2は一次関数を利用してテニスのサーブが直線だとして本当にフォルトにならないか確かめる問題。

中1は垂直二等分線や垂線から宝物を探したり。

あげたらキリがないですがめちゃくちゃ楽しそうに数学していたなぁと思います。活用していますよ。ちゃんと。

書いていて私も虚しくなってきました。

こういう授業をしても残念ながらあんまり受験で生きないんですよね。
生徒は楽しそうですが一定数「受験対策してくれ」という生徒もいるわけです(中3は顕著ですが)。

つまり何が言いたいかって文章題をする意味って中学校だけで言うとやっぱり受験や成績で差をつけるためになってしまいがちなんですよね。

ちなみに私は文章題で思考力が問えているとは思いません。ほとんどの問題はパターン化されてしまうわけで経験知で解けてしまうわけですから。
それでは知識技能の領域にほかならないわけですよ。実は。

だいぶ散文になっていますのでまとめますね。

そもそも文章題をする意味は

数学を何のために学んでいるか少しでも理解してもらうため。
だが実際はそんな意味は完全に形骸化していて完全に受験や成績算出のための道具と化している。
そして一般的に文章題は思考力とか言われているけどほとんどの問題は経験知によって解けるので基本的にはテストでは思考力は測れない。

といったところでしょう。

結構たくさん書いてしまいました。

ここまで読んでくださっているのはめがね旦那さんだけではないのかと思ってますが読んでくださった方ありがとうございます。

もう少し戯言に付き合ってくれると喜びます。

私は現在の高校入試のあり方に疑問を感じています。
なぜそんな話をするかというと思考力に大きく関係する話だからです。
せっかくなので書いておきます。

高校入試があるおかげで授業は知識偏重になってしまっています。実際入試でも知識偏重なので知識偏重の授業を生徒も望んでいます。

上に挙げたような本当に数学を活用するような(どうしても物理っぽくなるけど)授業は正直時間がかかりますのであまりできません。

アイディアがあっても実行できないのです。受験のための知識を伝達しなくてはいけませんから。

しかし文章題で体験を伴う学習の中で子どもは思考していきます。

校舎の高さを測るために太陽の角度を大きな分度器をつかって測ってみたりiPadで写真をとってみたりこういうときにこそ思考力は伸びるしそれを評価したいと思うわけです。

でも実際にはなかなかできないわけです。

その評価ではあまりにも客観性が保たれない。主観による部分が大きくなってしまいます。それこそ教師への忖度=成績になってしまう可能性がある。

そうするとペーパーテストで図れる点数こそが一番客観的に見て納得できるわけです。

定期テストで90点をとったら5!

わかりやすいです。先生も楽です。

もしも入試がなくテストが成績に全く影響しなかったらどれだけ学習が捗るでしょうか。
どれだけ数学が楽しく学べるでしょうか。

そう思って止みません。

何が言いたいかというと思考力を育てたいのにも関わらずそのような環境は学校には全くないということです。

文章題で思考力なんか問えません。これが私の主張です。

問えるのはパターン化できているかどうか。知識・技能の部分だと私は思います。

ってことで高校入試変われ。と思っています。ええ。

そろそろ眠くなってきました。

書き出したら2時間経ってました。
いい時間でした。最後までお付きあい頂いてありがとうございました。
ぜひちょっとでもいいと思ったらシェアしてもらえると幸いです。今後ともロマネスコをよろしくおねがいします。

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