見出し画像

気遣いってなんだ

「想像力が足りなかった。この歳で恥ずかしい、反省している」

このような発言が推しの口から出ました。
詳しく聞くと確かに良くなかったものの、知らないなら仕方ないと思える内容で。
悪気なく相手を傷つけてしまった経験は誰でもあると思います。そんなときに使う「想像力が足りなかった」という言葉にうっすらと違和感を抱くのです。本当に想像力があれば回避できたのか。
揚げ足をとるようですが、自分の中にないものはいくら頑張っても思い付きません。変に想像して余計なお世話になっても迷惑だし、それに気付かず自己満足してしまったらタチが悪すぎる。
お気遣いが上手な人は経験豊富なのだろうと思います。車椅子のサポートの仕方、家庭を持つ人への配慮、鬱の人へのケアなど、無数のシチュエーションに対して全くゼロの状態から正解を出すなんてできないはず。身近な人がそうだったり、教えてくれる人がいるように見える。何より相手の事情を受け入れるキャパを持っていること。
そういう人になるにはどうしたらいいんだろうと考えます。環境があればラッキーだけど、誰にでも機会があるわけじゃない。機会がない代わりに常にアンテナを張って、なおかつ吸収する余裕を持っていることかなぁとぼんやり思います。精神が弱ってると他人に構っていられないので余裕は重要。結構難しいな。
隣の芝生ではないですが、器用に立ち回っているように見える人もきっと別の場面で失敗はあるはずで。ヘコみすぎないで前向きでいられるメンタル構築しないといけないですね。

「気を遣う」と「気遣いをする」

長いことこの言葉を混同してました。というかあまり深く考えてたことがなかった。「先輩に遠慮しがちで疲れるんだよね」と「贈り物いただいたからお返ししないと」の気を遣うは別物。矢印が自分と相手どちらに向いているかでニュアンスが変わります。前述した想像力が足りず…の場合は後者に近くて、ある程度学習が必要なものと考えた方がしっくりくる。うまくやっていくためのテクニックというか。
相手のリアクションを気にして言動が制限されるのは矢印が自分に向いているとき。こんなのない方がラクですが抱えている人は多いと思います。自意識過剰というやつですね。「あの人アタシのこと好きだわ」みたいな時に使う言葉のイメージありますが、他人からどう思われるかを意識すること全般を自意識過剰と呼ぶのも最近発見しました。

そろそろ「気」がゲシュタルト崩壊してきました。答えはないし繰り返し起こり続けることなので、失敗を教訓に変えて元気に生きましょうという感じで終わりたいと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?