リスクのとらえ方⑤ゼロリスク志向
リスク(いやなことが起こる可能性(確率))は色水みたいなものである。すなわち水を注いで希釈すると小さくできるが、ゼロにはならなない。
これに対して、リスクをコインの裏表でイメージすると(つまり100か0か)、もともとリスクは「いやなこと」を対象とした事柄なので「ゼロ」が良いということにならざるを得ない。
するととてつもなく資源を投資して「ゼロ」を目指すことになるが、どこまで行っても「ゼロ」になっていないので、目指している当事者はどこかで「ごまかす」しかなくなる。
「(実は完全でないけど)これで「ゼロ」です」
ゼロリスク志向が、リスクへの対処を弱める
仮にあるリスクが「ゼロ」になったと仮定する。するとそのリスクが存在していることを前提とした努力は必要なくなる。たとえば避難訓練とか、常日頃の準備などである。これは相当危険なことである。これだけでもゼロリスク志向が間違っていると言っても良いと思う。
新たな技術によるリスクだけが眼に入る
例えば新しい科学技術を使おうとすると、そこに新たなリスクが生ずる。この新たなリスクをゼロにしない限り認めないという風潮ができると、推進しようとする側は相当の努力をした上で「ゼロ」と言い募る可能性が生ずる。もともとその新しい科学技術によるベネフィットを考慮すると、「リスクよりベネフィットが大きい」と考えてその科学技術を創造してきたからである。
自動運転を考えると、これまで自動運転技術(の開発過程や利用)によって新たな事故が生じている。しかし、新たな自動運転技術によって
「これまでの既存の事故の量」と
「新たに生ずる事故の量」
前者が大きく減少し、後者が小さく発生する限りは、社会全体では事故が減る。
ところが新しいリスクに目が行きがちなので、新しいリスクだけはゼロを要求する風潮が生じやすい。
※交通事故による死亡者(昨年3000人超)、負傷者(昨年46万人超)
車の運転によるリスク(交通事故の起こる可能性(確率))を我々は受け入れている。だから車の運転を社会全体で廃止して、交通事故リスクをゼロにしろという運動を聞いたことがない。ところがなぜか新しい技術だけにはゼロを求める風潮が起きやすいように思える。
社会における「様々なリスクの総量」を減らすためには、リスクを受け入れることがスタートラインという矛盾がある。この矛盾を共有する必要があるように思える。