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完全無欠【短編小説】

朝宮達也は、月野恵介が出会ってきた人間の中で、おそらく最も完璧に近い人間だった。

一ヶ月前、月野のバイト先——牛丼屋・『きら家』に新入りとしてやって来てからというもの、瞬く間にその店の顔となった。同じバイト生である女子大生たちにいつも群がられているかと思えば、店長でも手懐けられていない生意気な高校生バイトをたったの一週間で掌握してしまったのだ。

大学二年生にして、既に大人の男といった風格を漂わせている朝宮は、バイトを始めてから二週間でワンオペを任せられるようになった。同い年である月野は、ワンオペを任せてもらえるのに一年間もかかったというのに。

超有名私大の看板学部に通っていて、将来有望。身長は百八十五センチを超えており、高校時代ラグビーをしていたらしい朝宮の体格はがっちりとしている。そしてその極め付けは、整い過ぎた顔立ち。彫りが深く、尖った鼻は日本人離れしている。

およそ朝宮とは真逆のスペックの月野は、朝宮を見る度、疑問に思う。こんな不公平なことが、存在していいのかと。与えられた者と与えられなかった者。ならせめて性格だけでも誠実であろうと思っても、朝宮はまた月野が考える誠実より遥か誠実を地でいく男だった。シフトに欠陥があれば真っ先に名乗り出るし、店が忙しければ仮に給与時間外であったとしても働く。女子高生バイトが変な客に絡まれたときには、真っ先に間に入って穏便に済ませる。

こんな完璧超人に、月野が勝てるはずもなかった。生まれ持っての主人公気質。少なからず、そういった人間は存在している。誰もが、主人公になれるわけではない。

今日も朝宮とシフトが被っていた月野は劣等感を抱えながら、きら家へと出勤する。また、あの煌びやかな生物を見なければならないのかと思うと、胃が痛む。月野はお腹周りを摩りながら、定位置に着いた。今まではメイン商品となる牛丼やカレーを作る役割だったが、それも朝宮が来てからは全くしなくなった。圧倒的なスピードと正確性を併せ持つ朝宮の台頭により、月野は一年前と同じ皿洗い担当に逆戻りしていたのだ。事実上の降格といってよかった。

結局、ここが自分の定位置だったのかと思うと、月野は途端に情けなくなってくる。たかがバイトなのに、どれだけ長くても後二年もすれば辞めるのに、どうしてこんなにも悔しいのだろう。月野は憂う。悶々と、丼の底にこびりついたチーズソースの汚れをスポンジで落としながら。

「月野くんって、マジで綺麗に汚れ落とすよね」

背後から聞こえてきた声に、月野は我に返る。声のした方を振り向くと、肩越しに吉永夕美が、月野の手元をじっと覗き込んでいた。

「吉永さん」

「あ、ごめんね。集中してたところ。客あんまり来なくて、暇でさ」

フリーターの夕美は、キャピキャピとした他の女子大生とは違って、どこかサバサバとしている。それに、他の女性従業員と違って、夕美は朝宮ともフラットに接してくれている——ような気がする。月野好みの女性だった。

「月野くん、元気?」

「え?」

「なんか浮かない顔してるように見えてさ。私の勘違いならいいんだけど、何か悩み事でもあるの?」

微笑みを向ける夕美は、まるで月野にとって救いの女神のようだった。月野は、彼女に縋るように、洗いざらい全てを話した。自分の存在意義は一体何なのか、何故こんな不条理なことばかりで溢れかえっている世の中なのか。朝宮に話が聞こえないよう、彼の名前は伏せて。

話を聞き終えた夕美は、なるほどねぇ、と一つ呟くと、その白い歯を見せてニッコリと笑った。

「でもさ、いいじゃん。主人公になれなくても」

思いがけない夕美の返答に、月野は目を丸くする。

「だって、どんなアニメや漫画でも、主人公が一番人気あるわけでもないじゃん? 中には脇役が人気投票で一位を取ったりすることだってあるし。脇役には脇役にしか醸し出せない魅力があるんだよ」

「脇役にしか、醸し出せない魅力…」

「一番手にはなれなくても、葛藤しながら前に進んでいく月野くんのその感じ、私は好きだな。苦労があってこそ、人は輝くものでしょう?」

その瞬間、月野の中で何かが弾け飛んだ。俺は確かに朝宮のようにはなれないのかもしれない。でも二番手にしか放てない輝きがあるのなら、この苦労もいつかは糧になる。

全てが意味あることだったのだと思えたこのとき、月野の明日は動き始めようとしていた。


「これで、よかったの?」

客もまばらになった二十二時、更衣室で着替えを済ませた夕美が、従業員出入り口前に佇む朝宮に問う。朝宮はまだ制服から着替えていなかったが、その身体からは脂っこい匂い一つしない。

「ありがとうございます、無理な頼み事を聞いてくださって」

ああ、なんて美しくも逞しい声なのだろう。その声にうっとりとする夕美は、慌てて首を横に振る。

「あれぐらい、どうってことないから!」

柄にもなく照れている。夕美は自分らしくないなと思いつつも、こんなハイスペック男に感謝されて平静を保っていられるわけがない、とも思う。もし、まだ月野が帰宅していなかったら、きっと失望されてしまうだろう。彼は、夕美の放った一言一句全てが、彼女自身のものなのだと信じているのだから。

「吉永さんは演技派ですね」

「そ、そうかな?」夕美は、密かに劇団に所属していた。女優を夢見ていないと言えば、嘘だ。朝宮のその褒め言葉に、頬が熱くなっていく。

「あそこまで自然な感じで僕の渡した台本を言えるなんて。ドラマのワンシーンを見ているようでした」

「朝宮君の言葉選びが、凄いだけだよ。あんなこと言われたら、誰でも勇気が湧いてくるんじゃないかな」

「そう言っていただき、光栄です」

くしゃりと笑って見せた朝宮の顔を、すかさず記憶フォルダに保存する。頑張ってセリフを覚えてよかった。夕美は心の底から思う。

時は遡ること一週間前、朝宮とシフトが被った夕美はその帰り、朝宮からある一つの頼み事を受けた。何でも、月野の急激なモチベーション低下を心配した店長からどうにかしてくれないかと、朝宮に話が回ってきたらしい。朝宮は店長のその相談を快く引き受け、夕美にそれを託したのだった。

あの朝宮に頼られた夕美は嬉しさを隠し切れなかったが、とても月野の件に対して何か協力できることがあるとは思えなかった。そもそも夕美は、月野という存在に対して無関心だった。

だが、朝宮は言った。A4用紙二枚分の台本をざっくりと覚えてくれば万事解決する、と。その台本には、月野のセリフと夕美のセリフが交互に書かれていて、夕美は自分の名前が書かれたセリフだけを覚えてくればいいと、朝宮から指示を受けたのだ。

訳もわからぬままその台本に書かれたセリフを覚えた一週間後、月野に台本通りのセリフで話しかけた。結果、月野は自信を取り戻した。

「でも、一つだけ凄く驚いたことがあって」

夕美は今も目の前にいるこの男が同じ人間とは思えなかった。

「どうして、月野君は朝宮くんの書いた台本とほとんど同じように喋ってたんだろう。月野君は知らないよね? この台本のこと」

一瞬、朝宮の顔から涼しげな笑みが消える。それに呼応するように、店内に流れていた有線の音楽が止まった。いや、止まったように聞こえた。

やがて厨房の方から、「朝宮くん、ちょっとだけ手伝ってほしいことがあるんだけど」と深夜帯の従業員の声が聞こえてきた。朝宮も夕美とともに二十二時に勤務を終えていたが、朝宮は今行きまーす、と嫌な顔せず答える。

「…あの、朝宮くん?」

再び朝宮の顔には、笑みが広がっていた。どこまでもとどまることを知らないその笑みは永遠と拡大していくようだった。

「呼ばれてるので、行かないと」

「あ、ごめん、呼び止めちゃって。…じゃ、お疲れ様!」

これ以上、朝宮と同じ空間にいるのはまずいと思った。何がまずいのかはわからなかったが、夕美の本能がそう告げていた。振り返ることなく足早に従業員出入り口を後にする。先程のあの間は何だったのだろう。夕美は薄ら寒さを覚えながら、先を急いだ。と、そこで予期せぬことに気がつく。

スマホを更衣室に忘れた。

何で、こんなときに限って。店に、再び戻りたくはなかった。もし、更衣室で朝宮と鉢合わせたらどうする。店の前に行ってまだ朝宮が厨房にいるかどうか確認したが、目の悪い夕美にはぼんやりとしか店内は見えない。

腹を括って、夕美はそっと従業員出入り口の扉を開ける。厨房の方に目をやると、そこにはまだ朝宮の大きな背中があった。

ほっと胸を撫で下ろして一畳半の更衣室に戻った夕美は下駄箱の上に置きっぱなしになっていたスマホを手に取り、再びドアノブに手をかける。そのとき、ふと朝宮の白いトートバッグが目についた。

いけないこととは思いつつ、夕美はそれに手を伸ばす。中には柔軟剤の香りが染み付いたポロシャツが一枚と何十枚もの資料が入った黒いクリアファイル。何ともなしにクリアファイルを手に取ったとき、中に入っている用紙が床に散らばった。

急いで回収しようとした夕美は気づく。明らかに盗撮されたと思われる自分の写真と、「吉永夕美」と書かれた一枚の資料があることに。そこには、夕美の家族構成、経歴が詳細に記されていた。そして、『現在劇団に通っており、女優志望?』という内容の文言。私、朝宮君に家族のことも劇団のことも話してないよね? 劇団のことに関しては、バイト先の人間はもちろんのこと、身近な人間にも話していない。なんで? 冷たい汗が、夕美の背中を伝う。

床に散らばった他の資料に目をやると、そこには月野の盗撮写真と本人しか知り得ないような情報が記されたプロフィール。え、どういうこと? 疑問符が、夕美の頭を駆け巡る。見渡せば、夕美と月野以外にも、他の従業員のものもあった。言動や考え方の癖まで克明に記されており、まるでプロファイリングされているようだった。

朝宮君って、まさか——。

ようやく頭が現状を理解しようとしたその瞬間、ガチャリと背後のドアが開く音がした。

振り向くと、そこには完璧主人公がどこまでも涼しげな笑みを浮かべて、佇んでいた。

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