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勇気を出して「踊り」の魅力について明らかにしたい!
私は踊ることが好きです。踊るといっても様々な踊りがありますが、私は新体操をしています。新体操はスポーツなので、純粋な踊りではないかもしれないですが、私は新体操で「踊れる」ことが魅力と感じていて、今もその魅力に浸っています。
踊ることが好きな一方で、踊りというものについてもっと詳しく知りたい、そしてその魅力を伝えたい!と思っています。今私は趣味で新体操をする傍ら、学校の先生として働きながら、踊りについて研究をしています。今回は私が今やっていることと、そのために必要な「勇気」についてまとめてみました。
研究を始めたきっかけ
私は5歳から、高校3年生まで新体操漬けの日々でした。選手として試合に出場させてもらうようになってからは、毎日練習。さらに、新体操はプロポーションが大事なスポーツ。痩せていないといけないので、毎日走って、体重を測定して、食事を制限して。厳しい練習・体重管理の中で、そこに楽しさはなく、毎日逃げ出したい思いと戦いながら新体操に取り組んでいました。
全国大会に出場させてもらったり、その中で嬉しい成績をもらうこともありましたが、自分の中で新体操の経験は決してきれいなものではなく、むしろ消し去りたい過去でもありました。それでも新体操の経験が貴重なものであったと気づかせてくれたのが大学でした。大学4年の時に受けた教員採用試験で、「あなたの新体操の経験は、教育現場にどう生かせますか?」と質問されたとき、私の経験はただの経験でしかない、もっと具体的に記述できるような知識としてモノにしたいと思ったことから、大学院に進学しました。大学院で「スポーツ哲学」という領域があり、そこでは新体操の芸術性に関わる研究ができることを知って、研究を始めました。
研究をしていく中で、自分がいかに惰性で新体操をしていたか、まっすぐ向き合ってこなかったかということに気づかされました。毎日の苦しさを言い訳に新体操の魅力について知ろうともしなかった過去の自分に、さらに今新体操の魅力を見失っている新体操選手や指導者に、「新体操にはこんな魅力がある」ことを広げたい!という思いでいます。
今研究していること
今は、正規の小学校教員として働きながら、休日に研究をする、自称休日研究者(笑)をやっています。2024年からは、縁あって大学の先生と共同研究させてもらうことになり、研究会で発表をさせてもらうようになりました。(本当に本当にありがたいことです。)
今の私の興味は「踊り」。それも、踊りにおける表現とは何か?踊りにおける音楽性とは何か?といった、踊りの哲学にあたる部分を明らかにしたいと考えています。踊りには様々な魅力があります。もうすでに、心理学的な効果や、生理学的な効果はなんとなく明らかにされていて、いい気晴らしになるとか、健康増進に一役買うとかはわかっています。しかし、多くの哲学的問題が明らかにされていないように思っています。そして、この哲学的問題が、踊りの魅力を明らかにするために必要であると考えています。
例えば…
・踊りは自己表現できることが魅力だ。しかし、踊りにおける自己表現とはどういうことなのだろうか?自分の思いを相手に伝えること?相手に伝わらなかったら表現できていないということ?「表現できている」というとき、観客は何を見ているの?
・踊りは音楽性が高いと、評価も高くなる。しかし、踊りにおける音楽性って何だろう?音楽と合っていればよい?踊るとき音楽はどう捉えたらいいの?音楽性の高い踊りをするにはどうすればよいの?
私も、自分の新体操の経験の中で、踊りで自己表現できるところが面白いことや、音楽性の高い踊りは評価されることを理解しています。しかし、その中身がどうなっているのかを説明することができません。これは私だけでなく、踊りに長年携わっている人もそうで、現場でもなんとなく指導されています。この部分が明らかになれば、踊りはもっと上達するし、もっと楽しくなると考えています。
ちなみに現段階では、フランスの詩人ポール・ヴァレリーの芸術論に沿って、踊りにおける表現について説明する試みをしました。また、ヴァレリーの芸術の構造をもとに、音楽性について説明しました。前者は文章が公開されているのですが、実名も公開されているので💦ここでは紹介を省きます。
研究するために必要な勇気
さて、私はこうして自称休日研究者をしているわけですが、研究をするまでに、様々な葛藤がありました。
①研究者になるには膨大な知識を持っていないといけない
研究者というのはその分野の専門家であり、多くの専門的知識を有しているものです。私は勉強自体は嫌いではないですが、高校まではほぼ勉強もせず新体操に打ち込んでいたし、とても優秀な成績であったわけでもありません。大学では私の出身校よりはるかに高い偏差値の高校の子がいたり、研究会では手も足も出なかった大学出身の人もたくさんいます。世界を知れば知るほど、自分より格上の人が山ほどいることに気づき、果たして私はこの世界に飛び込んでいいものなのか?と悩むこともありました。
②新体操や踊りの研究は、もっと競技レベルが高い人でないと通用しないのでは?
私は長年新体操をやっていたものの、大学では続けておらず、このことが自分の中で大きな障壁になっていました。大学でどんなことを学ぶかはわかりませんが、新体操の知識や経験を身につけるにあたり、大学で競技をしていることは大変大きなアドバンテージであると感じています。大学まで続けた子は、演技の構成力(新体操の演技を作る力)が段違いです。それは単純に審判の知識があるだけでなく、経験として、見る目が肥えていると感じさせます。自分には知識や経験、審美眼が足りていない、研究するにふさわしくないかもと感じていました。
③時間的制約
普段、小学校教員をしているので、満足に研究をすることは難しいです。自分の中では、数年後に退職して、退職してから研究に本腰を入れようかと思っていたのですが、ここで奇跡の出会いがあります。
それは、SNSで私を見つけてくれた大学の先生からの共同研究のお誘いです。私には思ってもみなかったことで、声をかけてくれたことに心から感謝したのですが、自分の中で不安がありました。それが、時間的制約です。共同研究をさせてもらうからには、結果を出したい。でも、先生として働きながら、がっかりさせないような研究ができるのか心配でした。
今の環境や意欲になるまで、様々な障壁がありましたが、最終的には勢いとやりたい気持ちで乗り切っています。これは、「勇気を出した」からできたことなのと、最近共同研究している先生に気づかせてもらいました。
勇気は、字面は簡単で小学生でもわかる言葉ですが、実際に勇気を出すことは難しいです。例えば、好きな人に思いを伝えたいと思っても、もしかしたらフラれて辛い思いをするかもしれない。気持ちを伝えることで、今の良い関係性が崩れるかもしれない。そうしたマイナスなことがたくさん考えられる中で、勇気があれば、殻を破って気持ちを伝えることができます。
世界に向けて何か新しいことを発信しようとするときにも、勇気が必要です。新体操に関する新たな取り組みをする!と発表しても、それをよいと思わない人からバッシングを受けることもあります。新たな取り組みを発表する前に、「これはよく思われないかもしれない」と自分で箱に入れてしまうこともあるでしょう。
それでも、勇気を出せた人だけが新たな可能性をつかむことができると思っています。私は、研究者を目指すうえで今後も様々な障壁にぶつかっていきます。それでも、勇気を出して、自分の叶えたい夢に向かって進みたい!
終わりに
この文章を書いて発信するにも勇気が必要ですが、勇気を出して発信します。発信することで「それは間違っている」という指摘をもらうこともあるかもしれませんが、世に出て指摘されることで得る気づきもたくさんあります。勇気を出して、自分の考えていることを貫いて、たくさん指摘をもらって、夢に向かって進んでいきたいと思います。指摘と応援、大歓迎です!