見出し画像

避難所にて

 とにかく1人になりたい。そう思った。


 コロナ禍が明けて、職場の飲み会が定期的に開催されるようになった。職場の休憩室に飲み会のお知らせが貼ってあると、少し暗い気持ちになる。コロナ禍で唯一よかったなと思えるのは飲み会がなくなったこと。それがまた再開してしまうのか。みんななぜそんなに大勢で飲みたいのだろう。私はそれよりも少人数で静かに話をした方が、ずっといい時間を過ごせると思う。それでも、「久しぶりだから」「飲み会を断るうまい理由をサクッと言えなかった」というくだらない理由で飲み会に参加した。

 とてもしんどかった。周りがどんどん酔っ払って我を忘れて楽しんでいる中、お酒が飲めない私はひたすらその様子をニコニコしながら眺めていた。これもまた一興ではあるのだが、頑張ってここにいなくてもいいな、と思った。

***

 元々人とコミュニケーションを取ることは嫌いではなかったが、大勢の中に入っていくのは苦手だった。学生時代、いじめられていたとか仲間はずれにされていたわけではないのに、何となくクラスで1人浮いた感じになることがしばしばあった。みんなは簡単に大勢の輪に入ることができるが、私にはできない。かといって一匹狼で過ごせるほどの勇気もなかった。

 幸運にも素敵な友達に恵まれたし、大人になったらクラスなんて概念なくなるし大丈夫だろうと思っていたが、むしろ逆だった。組織の中で、自分のコミュニケーション能力の低さをまざまざと感じさせられる。ふと気づけば、相手が何を思っているのか深読みしたり、相手の言葉を過剰に受け取ったりするようになっていた。そしてもっとこうすべきだった、配慮が足りなかったと思い悩み、私は人間としてなんて未熟なのだと自分を責めるのだ。私の自然体では相手に気に入ってもらえないだろうと、相手と一定の距離を保つようになった。悪循環だ。

 このような闇を抱えながらも仕事の勉強は好きだったので頑張っていた。しかし、すっかり自分の悩みを自分の中でだけ抱えるようになった私は、3年前に誰にも気づかれることなく、ひっそりとうつ病になった。しんどいと思っていること、モヤっとしていること、全部どうやって周りに話したらいいのか分からなかった。とても辛い経験だったが、そこで思ったのが、「人との関わりを頑張り過ぎている」ということだ。そこまで気を遣わなくてもいい。同僚と仲良く話そうとしなくてもいいし、話したければ話せばいい。少なくとも自分のやるべきことを粛々とやればそれで十分ではないか。そう思うと生きるのが楽になった。

***

 私は、少なくとも今日はこの飲み会にはいたくない。私は飲み会を抜け出してカフェに逃げ込もうと思った。このまま家に帰るのは、私は職場の飲み会ですら嫌になって逃げ出すような社会不適合者だなどと考えて、もっと自分が嫌になる気がして、どこか1人で落ち着ける場所がないか考えた。確か夜も営業しているカフェがあったはずだ。前、恋人と一緒に行ったカフェ。あのときは私の家に泊まる前にコーヒーをテイクアウトして、2人で夜道を散歩して帰ったな。楽しかったな。次はいつ会えるんだっけ‥そんなことを考えていたら、閉店まであと30分だった。我に返って道を急ぐ。

 無事閉店する前にコーヒーを頼むことができた。いつも私はカフェラテを頼む。コーヒーも味わいたいけれど、ミルクの安心感も欲しいからだ。薄暗い店内、木のテーブル、よく知らない洋楽のBGM、ちょっと無愛想な店員さん、おしゃれなマグカップ、コーヒーの香り、温かさ。これこれ、私はこれを味わいたかったのだ。落ち着く。ほっとする。ぼんやり過ごす、至福の時間だった。よく頑張ったな、これでいいんだぜ、と自分で自分を慰める。ふと、これが自分で自分の機嫌を取ることなのかもしれないと思った。そう思うと、逃げるのも悪くない。むしろこんなにいい場所に逃げ込めるなんて素晴らしいことではないか。私にとってあのカフェは、避難所のようなものだ。


 職場の飲み会には、一応行けるときは行くようにしている。全く行かないのもちょっと気まずい。でも怖くないのは、楽しめなかったら避難所に飛び込めばいいから。閉店時間も道も覚えたので、もう大丈夫。

いいなと思ったら応援しよう!