【20年弱の時を超えて】本歌取り 東下り 杉本博司 松濤美術館
まず「本歌取り(ほんかどり)」って何かね?と思ったところ公式HPにはこんな記載が。
ほほぅ!なるほど。
今で言うとオマージュとかリスペクト的な言葉の感じか。リミックスかな。
歴史好き小6長男に「『本歌取り』って知ってる?こういう意味でさ」と話した時に
「令和って元号もそういう感じで古い和歌からの引用だったよね。近いね」
と言われて、あ!そっか!と妙に納得。
作家 杉本博司氏の認識について
これは全くの先入観だが写真家だと思っていた。
多分、自分が初めて見たのが2005年の森美術館での個展「時間の終わり」展だったからだと思う。その前から写真美術館での展示で単品で見ていた可能性はあるが。
その際は写真中心の構成で、劇場シリーズが妙に印象に残っている。
おそらくどんなコンセプトで、どう撮ったのか、までは理解しきれていなかった。
しかし近年、様々な場所で氏の作品を見るたびに、あれ?この方は写真以外もやるのか?それともそれが大本だったのか?と疑問に思うようになってきた。捉えどころがない、というか。
そこにあるから見たまま撮るというより、撮り方を試したい人なのか?という疑問も。
今回の展覧会でやっと杉本氏を写真家だけではなく、美術家、として再認識するようになった。
2023年の夏に直島の杉本博司美術館まで訪れているのに、
今、2023年の10月になってやっと、やっと全貌が、輪郭が見えてきた様なそんな気持ち。
松濤美術館の解説で、やっと腑に落ちた。
作家名の認識からコンセプトの理解に20年弱かかっている。
でもなんとなく画面を眺めていられる。そこからゆっくりと作品と向き合いながら、で良かったのかもしれない。
ウィキだけ読んでても理解には結びつかないのだな。
目の人
そして「目」の人なのだな、と思ったのだ。
どう見たのか、どう見えるのかを時間軸も加味して追求した先にカメラ、写真という表現を始めたのだろうか。
見ること、見えること、見せられていること。
そんなことを考えた時、デュシャンにまつわる作品の展示があり妙に納得をした。
展示品について
さて、展示品に氏が収集した絵巻があり、内容が面白いものがあった。
法師物語絵巻。
解説には「主に坊主が揶揄される内容」と書かれていたが、
揶揄どころの騒ぎではなくこき下ろされていて笑ってしまった。
クスッと笑う物事に惹かれる。
笑いがわかる、というのも自分の体験やらが下地にあるからだけども。
おおらかにいこうよ。と思わせる。
決して広い空間ではないが理解は深まる
松濤美術館は都内ではかなり狭い公立美術館かもしれない。
しかしその分キュレーションの奥行きというか、物理的な空間を構成により凌駕し展示を充実させることができるのだなと感じた。
素晴らしい内容だった。