刑事コロンボとロンドンと寅さんと
最近、ビッグバンセオリーを脇において刑事コロンボにはまり込んでしまっていますが、ずっと見ていると第2シーズンの「ロンドンの傘(原題:Dagger of the Mind)」は邦題タイトルの通り、ロンドンに出張したコロンボがそこで事件を解決してしまうエピソードになっていました。
1972年のロンドン観光
このエピソードがアメリカで放映されたのは1972年11月26日。撮影がいつなのかはっきりしたことは分かりませんが、早くても1971年の下半期ごろでしょうから、1971年から1972年ごろのロンドンが見られます。
これがまた、ヒースロー空港に到着する飛行機(たぶんコロンボ警部が乗っている設定の便)はパンナムですし、ヒースロー空港からロンドン市内に向かう道路の雰囲気がこんな感じです。(記事トップに貼った画像もこれ)
そして今回の殺人の舞台となるのはスローン・スクエアに今現在もあるロイヤル・コート劇場。
画像は左がコロンボに出てくるロイヤル・コート劇場。右が現在のグーグルマップのストリートビュー。
となりの建物まで、当時と全く一緒ですね。
写真は引用しませんが、バッキンガム宮殿、ニュースコットランドヤード、ビッグベン、タワーブリッジなどなど、そりゃあ有名な観光名所は一通りでてきます。
シャーロック・ホームズの名前すら出てくる。
「マダム・タッソー」の名前はついていませんが、「ロンドン・蝋人形館」まで出てきます。
ロンドン蝋人形館とマダム・タッソーの館
マダム・タッソーの館はメリルボン通りに面していて、ベイカーストリートのすぐそばにあります。コロンボの劇中の建物の雰囲気とは全く違いますし、そもそもマダム・タッソーの館ではなく、なぜ「ロンドン蝋人形館」なんでしょう?
マダム・タッソーの館は1884年にメリルボン通りに移転したそうですから、コロンボのドラマを撮影した1971年~1972年には間違いなく現在の場所にあったはずです。
こちらはコロンボの劇中で「ロンドン蝋人形館」として出てくる場面ですが、今のマダム・タッソーの館とは雰囲気が全然違います。前の通りの感じすら違いますね。
果たしてどういうことだろうと思ったら、この後コロンボが「ロンドン蠟人形館を出て通りを越えて反対側に渡っていきますが、この建物はロンドンのランドマークの一つです。
ロイヤル・アルバート・ホール。なんと今年は開場150周年記念だとか。
そして、このホールの向かいには、なるほどアルバート・ホールにふさわしい学校があります。
Royal College of Music。
入り口の様子は「London Wax Museum」の看板で隠れて見えませんが、その脇の入り口や窓の雰囲気は変わりません。
コロンボの時代のカメラの画角のため、この写真ではわかりにくいのですが、コロンボが道路を渡るときの奥の雰囲気の写真がこちら。
今の写真(Google Mapのストリートビュー)と並べると同じ場所なのが分かります。
決定的なのがロイヤル・アルバート・ホールなので、それ以外は傍証のようなものなのですが。
同じ様に並べてみましょう。
王立音楽大学(ロイヤル・カレッジ・オブ・ミュージック)のホームページがこちらなんですが、この学生二人はロイヤル・アルバート・ホールの階段を上っているところですね。
コロンボを見ていて、なぜマダム・タッソーの館と言わないのか不思議だったのですが、明らかに王立音楽大学をロケ地(中は違う場所のようですが)を使い、マダム・タッソーの館の名前も使っていないところを見ると、クレジットを与えなかったのでしょうね。
刑事コロンボのシリーズと日本の寅さん
いきなり変な題名をつけたのですが、ピーター・フォークによるテレビシリーズがスタートしたのは1968年。
一方、日本が誇る映画シリーズ、「男はつらいよ」も最初にTVに登場したのは1968年。その後、松竹の映画シリーズ第1作目が公開されたのが1969年だそうです。
寅さんの第9作「男はつらいよ 柴又慕情」が 1972年8月5日。第10作「男はつらいよ 寅次郎夢枕」が 1972年12月29日だそうですから、刑事コロンボ「ロンドンの傘」はちょうどこの間の作品になります。
当時の日本の風景、ロンドンのように変わることなく残っている場所って、どれくらいあるのでしょうね?
最初、刑事コロンボの1エピソードで記事を投稿するつもりではなかったのですが、ロンドンでの物語だったのと、現在の実際の場所と違うところが使われていたので気になって調べてみました。
いくつか分かったこともあったので、メモとしておいておきたいと思います。
本日も最後までお読みいただきありがとうございました。