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【鬼凪座暗躍記】-五悪趣面-『其の六』
真志保は、すぐそばで聞いた狂人の嗤い声に、青ざめ震え上がり、カチカチと歯を鳴らした。濃霧は相変わらず、呼吸器官に張りつくような密度で、重苦しく圧しかかってくる。
視界はまったく利かず、手探りながらここまで逃げて来るのが、やっとだった。
閻魔堂と男四人から、かなり遠ざかったつもりが、存外近場で放たれた狂声に、狡猾な女狐からも、勝気な癇症など綺麗さっぱり消し飛んでしまった。
真志保は胸の鼓動を抑え、今はとにかく、無事ここから逃げきる方法を、模索するのに懸命だった。
「あんまりじゃないか! 私は……あの男の名前すら、知らなかったんだよ!? 確かに十年前の私は、弥陀門界隈じゃあ、ちょいと鳴らした女掏摸だったさ! でもね……あの男の死にゃあ、一切関わっちゃいないよ! いや、死んだって話も今日、初めて知ったんだよ! それなのに、なんだって今更……あぁ啊っ!」
真志保は、岩陰の穴倉で、膝をかかえてうずくまり、泪にむせび、すすり泣いた。
「私は悪くない! 恨むのは、おかどちがいだよ! お願いだから、成仏しておくれよ!」
手を合わせ、念仏を唱える真志保……南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……その内、熱に浮かされた真志保の脳裏へ、ぼんやりと現れたのは、懐かしい弥陀門界隈の景色だった。
丹朱の巨大な楼門に、掲げられた【断悪修善】の戒律。混声で唱和される『南無阿弥陀仏』の六字名号が、真志保の記憶の底から十年前の過ちを、徐々にたぐり寄せたのだ。
――あれは、天神祭の初日……弥陀門町名物の提灯行列が、石畳の参道を練り歩いている時だったわ。『南無阿弥陀仏』の六字を唱え、提灯をたずさえた厄年の男女数百人が、天神さまに災厄の種火を預ける勇壮な大行列……これを目当てに集まった祭り客の間を縫い、仲見世通りを社殿に向かうのは……上品な高家出身のお坊ちゃま、そんな感じの男だったわね。巾着切りには絶好のカモよ。現に香具師の元締めや、土地の化他繰りどもが、早速、男に目をつけて、虎視眈々と懐の中身を狙ってたわ。けど、あいつ……色白で、ヤワな風貌とは裏腹、身ごなしにまったく隙がなかった。多分、武術に精通してたんでしょうね……私を含め、餓狼どもは皆そう思ったのよ。だから私たちは、この上物カモを落とすため、協力し合うことに決めたの。懐中品は、あとで山分け。もししくじっても、女の私が、公衆の面前で難癖つけてやれば、逆に慰謝料を分捕ることだってできるわ。そして、私たちは作戦を実行した。元締めの子分が、ニセの喧嘩騒ぎに男を巻きこんで、捕方風情に扮した化他繰り連が、仲裁に割りこむ。私はその隙に、男の懐中品を掏り盗る……結果は上出来だった! しかも化他繰り衆の目を盗んで、提灯行列にまじり、まんまと境内から逃げ出した私は、懐中品を丸儲けよ! 面白いほど上手くいったのに……畜生っ! 財布は薄っぺらで、男の福相は見かけ倒しだったわ! 折角、ヤクザを出し抜き、敵に回してまで手に入れたお宝がこんなんじゃあ、骨折り損のくたびれ儲けよ! けど、それだけのことじゃない! 掏られる方にだって、落度はあるのよ!? なのに……それが元で死ぬだなんて、誰が考えられるっていうのよ! 信じられないわ!――
『胸に手を当てて思い出せ、狐火の真志保』
真志保は、いきなり穴の奥からとどろいた獣声に、慌てふためき飛び出した。
血の気の失せた顔を恐怖に引きつらせ、獣穴からあとずさる。
穴倉からは、さらに不気味な重低音が流れ出し、硬直する真志保を厳しく断罪し続けた。
『お前の罪深さは、そこから先にある! お前は、財布の隠しに縫いこまれた、秘密文書の存在に気づくや、大層な金蔓になると踏んだ……そしてその文書を、宮内大臣【光禄王】附き少傳【橙文官】の元へ、売りつけに往ったではないか! お陰で、密約は六官に伝わり、崔劉蝉は、無実の罪に身を貶められたのだ! 薄汚い金の亡者め! 掏り盗るだけでは飽き足らず、劉蝉の命まで奪い盗った! 狡猾な女狐の正体は、五悪趣【偸盗】面の鬼女! この罪は、断じて許しがたい!』
そう云うなり、小さな穴倉から現れた怪腕が、真志保の足をしかとつかみ捕った。
黒光る獣毛で覆われた、巨大な腕に引きずられ「きゃああっ!」と、叫喚する真志保。
殺意を満々と湛え、穴の奥で待ちかまえる青年閻魔は、狂乱して泣きわめく真志保へ組みつき、地獄の底までも連れ去ろうとする。
「嫌っ! 嫌あぁぁっ! 許して頂戴! お願い助けてぇぇっ! 嫌ああぁぁぁあっ!」
すでに獣穴へ、半身を呑まれた真志保は、それでも地面に爪を立て、渾身の力で踏ん張った。助けをもとめ、死に物狂いで抵抗する。
しかし黒い怪腕は、真志保の顔に無理やりなにかをかぶせると、呆気なく彼女を突き放した。青年閻魔は含み嗤い、鼻を突く死臭だけを残すと、穴倉の奥へと姿を消した。
呆然自失の真志保は、ゼェゼェとあえぎ、その場に居すくまったまま、一歩も動けなかった。
やがて真志保は、閉塞感と視界の悪さ、どうにもならない息苦しさを覚え、青年閻魔がただいま己の顔にかぶせていった物を、怖じ怖じと触診した。
それは……疱瘡だらけの屍蝋肌、黒蛭のように分厚い唇、鉤鼻に大きな一眼、頭頂部の割れた三本角……まがうかたなき【偸盗鬼面】の見苦しい醜貌である。
艶美な年増の女狐は、地獄の判官が裁定した通り、本物の鬼女と化したのだ。
真志保は震撼し、あらん限りの声で絶叫した。
「嫌あああぁぁあぁぁぁぁぁぁぁぁあっ!」
彼女も到頭、気が狂れてしまったらしい。
暴走を始めた真志保は、白檀香の代わりに死臭をまき散らし、脇目もふらず疾駆した。
何度つまずいても転んでも、木々にぶつかり出血しても、彼女は決して立ち止まらなかった。髪は乱れ、衣服は破れ、傷だらけの真志保は、尚も足疾鬼の如く驀進し続けた。
そして気づけば真志保は、いつの間にか、最初の閻魔堂へと戻って来てしまっていた。
夜霧の中、どこをどう走ったのか……呆然と佇む真志保の横に、同じく雄叫びを上げた允蕉慙が、奇声を発して楊匡隼が、凶器をふるって怨言わめき散らし火伏せの玄馬が、怒号にまみれた血を吐きつつ三界薬師の爾圭が、一斉に元の閻魔堂へと舞い戻って来たのだ。
再び、一堂に会した五人……彼らは、互いの醜悪な鬼面を目にするや、いよいよ狂気を露にして、凄まじい殺意を燃え上がらせた。
そこに集まった者たちは、最早人でなく、悪心みなぎる憤怒相の、【五殺鬼】そのものであった。
「おのれぇ、貴様ら幽鬼のたぐいであったかぁ!」
「邪鬼どもめぇ! 地獄へ叩きこんでくれるぅ!」
「今度こそてめぇら、息の根を止めてやるぜぇ!」
「よくも、たばかりおったなぁ! 覚悟しろぉ!」
「薄汚い鬼畜外道! 死ぬのは、お前たちよぉ!」
偸盗鬼面が短刀で、殺生鬼面の脇腹をつらぬき、妄語鬼面の段平刀が、邪淫鬼面を胴斬りにする。飲酒鬼面の解体刀が、妄語鬼面の咽を裂き、殺生鬼面の投げ手斧が、飲酒鬼面の頭を潰す。そして邪淫鬼面の偃月刀が、偸盗鬼面の首を断つ。
まさに一瞬の殺戮劇であった。
五悪趣の鬼面をかぶった人非人は、闇の声に操られるまま、互いの命を奪い合ったのだ。
六斎日、鬼灯夜の閻魔堂。
静まり返った境内には、折りかさなり憤死する五つの屍骸と、酸鼻な血の海ばかりが、赤々と広がっていた。思わず、目を覆いたくなるほど、非業の死をとげた五人……そんな惨劇の直後、閻魔堂の板唐戸が開き、中から怪しい人影が姿を現した。
ー続ー