神さまなんて大嫌い!②
【汪楓白、道士を志すも挫折するの巻】
住劫楽土において、道士とは古来より廟に住み、邪鬼祓い、悪霊祓い、果ては妖怪退治などを生業とし、人々の幸魂を願い、世の信望を集め、畏敬の念をいだかれる……そんな、偉大な存在であった。長年の苦行や荒行で、人並み外れた功力、霊力を持し、武術に長け、道士によっては、典薬医術、加持祈祷を行う神通力までそなえ、迷える人々に生きる道を説き、常に自戒し、とにかく……この国で『道士』と呼ばれる以上、身も心も強くあらねばならない。仙道を志す者なら、なおさらだ。
などと、知ったかぶりかましたけど、結局は全部、古書で読んだ知識なんだよね。
なんにせよ、道士=凄い人……ってことくらいは、誰でも判る。
だから、僕も道士になる!
これが、僕の一大決心だ!
まぁ……「愛する妻を奪い返したいから」って理由は、かなり不純でお粗末だけど。
そして今、僕は道士になるための一歩を、意気揚々と踏み出した。
ここは、勢至門町『八椚宿』の外れにある『熾火里』……かなり、うら寂しい場所だ。
竹林に囲まれ、人家は離れ、鳥の声と、笹の葉のざわめきしか、聞こえて来ない。
本当に、こんなところに、あるのだろうか……《神々廻道士》の廟は。
そう……僕は、神々廻道士に弟子入りすると、決めたのだ。
友人たちが止めるのも聞かず、劫初内詰め文官としての仕事も、急病を装い一時離職し、文筆業も休止してまで、凛樺のため、楊榮寧を倒すため、強い男になると心に誓ったのだ。
でも、さすがに不安になって来たぞ……知り合いから聞いた神々廻道士の廟の在り処は、確かにこの辺りでまちがいないはずなのに……それらしき建物が、まったく見当たらない。
どこかで道をまちがえたんだろうか。僕はもう一度、地図を確認し、後ろを振り返った。
けれどそこには、今歩いて来た一本道と、颯々たる冷たい風が吹き荒んでいるだけ。
困ったな……もうすぐ、火点し頃だってのに、どうしたらいいんだろう。
「なにか、お困りですか?」
「ふぇっ……はい!?」
突然、背後からかかった声に、僕は飛び上がるほど吃驚した。恐る恐る振り向けば、そこには唐輪髷の美少女が、無印の弓張提灯をたずさえ、佇んでいた。よかった……物の怪かと思ったけど、人間だ。でも……正直、心臓が、止まるかと思ったよ。ふぅ――っ!
「驚かせて申しわけありません……だけど、実は私も、声をかけるのが怖かったんです」
美少女は顔を赤らめ、うつむきがちにつぶやく。そりゃあ、そうだろう。
逆の立場だったなら、僕は絶対、声をかけないだろうな。無視するよ。身を隠すよ。
こんな山奥の、人気のない竹林で、しかも怪しい男に……ん? それじゃあ、この娘はなんで、僕に声をかけたんだろう。そもそも、この娘の気配を、全然、感じなかったぞ?
提灯の明かりにだって、今の今まで気づかなかった。なんだか途轍もなく嫌な予感……すると美少女は、僕の懸念を察したのか、恥じらう様子で微笑み、ためらいがちに云った。
「私……くわしくは申し上げられませんが、色々と深い事情があって、これから、この先の廟に住む、《神々廻道士》さまを、訪ねる途中なのです。そうしたら、前方にあなたの姿が見えて……私、なんだか怖くなって、一度は提灯の明かりを消し、近くに身を隠して、様子をうかがっていたんです。そうしたら、どうやらあなたは、道に迷って困窮しておられるだけのようだと、気づきましたので……思いきって、声をかけてみようかと……」と、小さな声で説明する美少女。
僕は彼女のセリフの前半部分に食いつき、後半は、ほとんど聞いていなかった。ついつい相手の気持ちも考えず、ズイと歩み寄り、声高に問いかける。
「お嬢さん! 神々廻道士の廟へ、往く途中なんですか!?」
「は、はい……そうでございます」
美少女はおびえ、一歩、二歩……いや、三歩は後退した。
僕は、ハッとして、美少女から距離を置いた。
「啊、ごめんなさい。おどかしてしまったみたいだね……僕は汪楓白。実は僕も、神々廻道士さまの廟へ、向かう途中だったんだよ。だけど、君の云う通り、道に迷ってしまって、かなり困ってたんだ。あの……それで、どうだろう。僕を、廟まで一緒に、連れて往ってくれないかな? 無論、君の事情とやらには一切、触れないし、変な真似もしないから」
なんか気恥ずかしいセリフだけど、この娘を不安にさせないためだ。仕方ないよな。
「……判りました。それでは、ご一緒しましょう。私は《茅娜》と申します。どうぞよろしくね、楓白さま」と、美少女《茅娜》は、一瞬の間を空けたのち、にっこりと微笑んだ。
それにしても、可愛い娘だな。色白で、小柄で、瞳は大きくて、黒髪は艶やかで……って、別に、変な気を起こしたワケじゃないぞ? 僕はあくまで、凛樺一筋なんだからね!
ただ……こんな魅力的な美少女が、たった一人で、薄暗い竹林を抜けて、道士の廟へ向かうなんて、よほど思いつめた事情があるにちがいないな。凄く気にはなるけど……触れないと約束したからには、守らなくちゃね。こういう場合、信用は第一だから……うん。
しこうして、僕と茅娜は、一緒に竹林の中の細道を、歩き始めた。
空にはもう、満月が浮かんでいる。今宵は、赤い凶兆の忌月……鬼灯夜か。
どうも不吉だな……神々廻道士は僕のこと、受け入れてくれるだろうか。
いや、たとえ、なんと云われようと、追い返されようと、僕は絶対に退かないぞ!
そんな風に、一人メラメラ闘志を燃やしながら、茅娜と連れ立って歩いている内、ついに目的の廟が見えて来た。それは丁度、竹林を抜けた途端、僕らの目に飛びこんで来た。
門がまえこそ立派だが、ヒビと穴だらけの築地塀に囲まれ、屋根瓦は一部崩落し、庭は芒や雑草でボウボウ、石灯籠に火は灯っているものの、青白い鬼火のようで、どこか薄気味悪い。こんなところに、本当に人が住んでいるのだろうか。
云っちゃ悪いが、まるでボロ屋だ。廃屋だ。とても道士の暮らす廟とは思えない。僕は、いよいよ不安になって来た。
「ねぇ、茅娜さん……本当に、ここが神々廻道士の廟なの?」
「えぇ、そうです。確かに、この外観では、疑いたくなる気持ちも当然ですわ。でも、ご心配なく。すぐに判りますから……こんばんは、夜分遅く畏れ入ります。私、茅娜です」
そう云って、朱塗りの門扉を、トントンと叩く茅娜だ。
すると、寸刻後……ギギィ――ッと、嫌な軋音を立てて、門扉が少しだけ開いた。
その隙間から、まだ歳若い男が、胡乱な眼差しで、こちらを睨んでいる。【緋幣族(赤毛で好戦的な長命種族)】の血を引いているのだろうか……燃え立つような赤毛と小麦色の肌を持し、精悍な顔立ちをした大柄な男だ。ちなみに歳は、十八、九といったところ。
「あなた……啊、そうか。約束の人だね。そちらは、お連れさん?」
「はい、もう宵口ですし、女の一人歩きは不安だったので……途中、知り合いになりましたこちらさまに、同道をお願いしたんです。こちらさまも、ここに御用だそうで……ね?」
親切な茅娜の説明を聞くや、男は僕の方をチラリと一瞥し、軽くうなずいた。
「あ、あの、僕は神々廻道士さまに、弟子入り……」
「取りあえず、入りなさい。この辺りは、夜間になると物騒だからね」
男は、焦って先走る僕の言葉をさえぎり、門扉をさらに開けて手招いた。
啊、思い出したぞ。この男……白蛇退治の騒ぎがあった晩、『金玉飯店』の外に待機していて、大八車で酒樽を運んで往った、あの弟子だ。笠に隠れて顔はよく見えなかったが、背格好がそっくりだ。そうと判った途端、僕はようやく不安から解放された。見てくれこそ酷いが、やっぱりここが神々廻道士の廟で、まちがいないんだ。疑ってごめんよ、茅娜。
「往きましょう、楓白さま」
「うん、ありがとう、茅娜さん」
僕は、茅娜と男に促され、朱色の門扉から、廟内へ足を踏み入れた。
うわぁ……内部は、思った以上に酷い! 荒れ放題の庭は、朽木と濁った泉水と古井戸が、得体の知れない巨大な虫を寄せ、異様な雰囲気をかもし出してるし、玉砂利はズゾッ、ズゾッ……と、歩くたび耳障りな音を立てるし、本殿入口に吊るされた提灯二つには、何故か「悉皆」「成仏」の文字が記されてるし……その本殿も、いざ入って見て驚いたよ!
だって、あちこち蜘蛛の巣だらけ! 壁は剥落してヒビだらけ! 質素な家具はどれも埃まみれ! 床板には割れた硝子や食器類が散乱し、足の踏み場もないんだもの! 一体、いつ掃除したの!? ……ってか、これはやっぱり、廃墟だ! 生活感が、まるでない!
「あの……随分と、変わった、内装、ですね……」
僕は、呆然と佇立したまま、惨憺たる室内を見回した。広間の奥の聖域内陣には、立派な祭壇が設けられ、天帝《摩伽大神》の神体画も掲げられ、黒光る位牌が並べられ、沢山の五色札が貼られ、さまざまな幣帛が飾られ、線香が紫煙をくゆらせている。ああいうところは、確かにそれらしいけど……でも、なんか釈然としない。腑に落ちない。得心が往かない。とにかく汚すぎる……そんな僕の思惑を察したのか、赤毛男が振り向いて云った。
「はっきり、仰ってかまいませんよ。〝なんて汚いボロ屋だ〟って」
赤毛の男はニコリともせず、口調はとても冷ややかだった。なんだか不愉快な態度だが、いや……兄弟子になるかもしれない相手だ。ここは我慢して、上手く取り入っておかねば。
「いいえ! お仕事が忙しくて、なかなか手が回らないんでしょうねぇ……哈哈」
僕は、男の機嫌を損ねぬよう、言葉を慎重に選び、作り笑いでお愛想を云った。
「驚いたでしょう……いつ来ても、こんな感じなんですよ、ここ」
茅娜が、戸惑う僕に、そっと耳打ちする。「へぇ、そう……」と、相槌を打とうとして、僕はまたしてもギョッとなった。彼女の瞳が、深紅に染まり、妖しく煌めいていたからだ。
僕は……僕は……この目を、この邪眼を、確かに見たことがある!
しかも……しかも……赤毛の男は、口端に、不気味な笑みをたたえている!
逃げなければ……今すぐに、ここから逃げなければ……僕の直感が、そう告げていた!
そこで僕は、切迫する危機感におびえ、ゆっくりとあとずさり、二人に気づかれぬよう入口へ近づいた。だって、赤毛男も、美少女も、尋常でない殺気を漂わせ始めたし、なにより足元を見れば影がない! 絶対、人間ではないよ! きっと、妖怪のたぐいなんだ!
「あら……どうしたんです、楓白さま?」
「つぅかさ……もう、気づいちゃってんじゃね?」
「そうかしら、嫌だ……つまんな――い! もう少し、遊ばせてよね!」
「だったら俺たちも、くだらねぇ演戯、続ける意味ねぇよな」
唐突に、態度を豹変させ、砕けた口調でしゃべり出す茅娜と赤毛男。
さらに――、
『啊、あとは血肉を、喰らうのみだ……』
『骨まで、しゃぶりつくして殺るぜ……』
『そして、魂は……泥梨へ逆堕とす……』
二重に響く不気味な獣声が、二つ……でなく、三つ……僕は震撼し、目を見開いた。
「まさか……そ、そんな……うわぁあぁぁぁあっ!」
パチパチと火花を散らす赤毛、ピキピキとヒビの入る鱗肌、ニヤリ嗤う獰悪な醜貌。
次の瞬間、赤毛男の両腕は、深紅の大翼と化し、茅娜の下半身は、グニャリとゆがんで、巨大な白蛇と化したのだ! そう……茅娜の正体に至っては、『金玉飯店』で神々廻道士に退治されたはずの、巨大白蛇だったのだ! いや、多分……同類の妖怪なのだろう!
なにはともあれ、ヤバイ! ヤバすぎるって!
こいつらが襲って来る前に、僕自身が腰を抜かす前に……早く逃げるんだ、楓白!
「……それじゃあ、またの機会に出なおしますんで、どうも~~」
こんな時まで律儀な僕は、丁寧にお辞儀してからクルリと踵を返し、一直線に廟の入口目指し、駆け出した。当然のことながら、二人はあとを追いかけて来る……と思っていた。
ところが――、
「へ!?」
二人は、その場を微動だにしない。
何故なら、僕が二人の前に戻ったからだ。
僕は、きちんと背筋を伸ばし、二人に最敬礼する。
し、信じられない! 一体、なにがどうなっているんだ!?
「か、体が、勝手に……ま、待て! 僕は、もう、帰りたいんだ! なんで……ぐっ!」
僕は、近くに倒れていた円卓と、汚い椅子を起こし、ストンと腰を下ろした。
折角、あつらえたばかりの長袍の袖口で、円卓上の埃を拭き、二人を手招きする。
そうして寄って来た二人に、両手を差し出し、満面の笑みを浮かべる。
『右腕は、俺が頂く』
『じゃ、私は左腕ね』
赤毛男と茅娜は、僕が笑顔で差し出す腕をつかみ、匂いを嗅いだり、舐めたりし始める。
やっぱり、食べる気満々だ! 僕は体を円卓にあずけ、ニコニコしながら、こう云った。
「どうぞ、美味しく召し上がれ」
この状況だけ見ると、僕がよほどの阿呆か、恐怖のあまり気が狂れたかと思うだろう。
ちがう! 断じてちがうんだ! これは、僕の意志じゃない!
体と口が、云うことを聞かないんだ!
僕は、今すぐ逃げたいのに! 食べられたくなんか、ないのに!
その時、僕の足元から、第三の声がした。
『喂……私の分も、残しておけよ』
まだ、いる! なにかが、僕の足元に、いる!
もうダメだ! 啊……思えばなんて、つまらない人生だったんだ!
愛情深く育ててくれた両親には、流行病で呆気なく早世されるし、親戚中の厄介者あつかいで、散々な子供時代だったし、学生時代は勉学について往けず苦労し、灰色だったし、科挙に失敗したお陰で出世街道から外れ、親類の伝手で辛うじて文官職に就けたけど、下っ端として毎日こき使われるし、文士としてそれなりに名が売れて来たものの、ようやく手に入れた最愛の妻には逃げられるし……挙句の果て、最期は妖怪の餌だなんて!
もし、僕の遺体が見つかったら、いよいよ都中の笑い者にされるな……友人たちには呆れられるな……妖怪に、まんまと騙され、廃墟に連れこまれ……こんな小汚いボロ屋敷が、道士の住む廟のはずないじゃないか! 外観を怪しんだ時点で、逃げればよかったんだ!
『あら嫌だ、こいつったら……泣いてんじゃない?』
『本当だ……喂、傀儡術の効きが弱ぇんじゃねぇか?』
『おかしいな……いつも通りに、やっているのだが……』
僕はこの時、笑いながら泣いていた。止めどなく泪が、あふれ出るんだ。
しかし妖怪どもに、お泪頂戴の愁嘆場など通用するわけもなく、同情心など、持ち合わせているはずもなく……いぃっ、痛い! ムチャクチャ痛いんですけど! 腕に咬みつきやがった! このまま、肉を引き千切られ、血をすすられ、骨まで残さず……啊、絶望!
だが、思いがけぬ展開によって、僕は最悪の死因だけは、避けられた。
『うっぷ……おげぇ! ぺっ、ぺっ!』
『ま、不味い……こんな不味い奴、初めてよ!』
『なに? 冗談だろう? どれ……ぬわっ! これは酷い!』
こ、こら! なんて失礼な奴らだ! 喰い殺そうとしておきながら、吐くほど不味いだって? ……ってか、アレ? 体が、急に自由に……って、おわぁ! また新手が出た!
「うぎゃあぁぁぁあっ!」
僕の背後に、ヌゥ――ッと、立ち現われたのは、全身黒尽くめの、奇怪な邪鬼だった。
衣服はおろか、頭髪も皮膚も、唇も爪も、白目まで黒い。(と云うか、黒目しかない)
頭頂部には彎曲した角が二本、これもやはり黒い。とにかく、黒い影のような男は、僕の首筋に咬みついたのち、他の妖怪同様、忌々しげに血を吐き捨てては、口をぬぐった。
えぇと……僕って、そんなに不味いの? いや、そんなこと気にしてる場合じゃない!
今が好機だ! 逃げるんだ!
僕は円卓を突き飛ばし、椅子を蹴り飛ばし、一目散に廟の入口めがけ駆け出した。
『おっと、いかん……思わず影から出てしまった』
『心配ご無用よ。あんな雑魚、私が簡単に捕まえてやるわ』
『そのあとで、じっくり時間をかけて、斬り刻み、嬲り殺してやろうぜ』
うひ――っ! 今度は背後から、物凄い勢いで追って来る! しかも、思わず耳を疑うような、恐ろしいことまで口走ってる! 絶対に逃げきらなきゃ……人生最大の危機だ!
だけど、案の定……僕は逃げきれなかった。グラリと揺れる視界、足がもつれ……しまった! さっき、白蛇女に咬まれたせいだ! 毒に侵されたんだ……そう気づいたのと同時に、僕は前のめりに倒れ……そこを、白蛇へと完全変態した茅娜に、巻き捕られてしまった。さらに、深紅の怪鳥へと変態した赤毛男が、飛びかかって来て、白蛇女から僕を奪い盗ろうとした。鳥脚の鋭い爪を、僕の腕に喰いこませ、激痛を走らせる。その上、赤い大翼の風切り羽は、まるで刃だ。周囲の物すべてを、羽ばたきひとつで微塵斬りにする。
とどめは黒い影鬼だった。どうやらこいつは、人間の影にもぐりこみ、自在に操る禍力を持っているらしい。またしても僕の影に侵入し、僕の体の自由を、奪おうと画策する。
いずれにせよ、今の僕にはもう、抵抗する力はない。
こうして僕は、白蛇、赤鳥、黒鬼の、三位一体攻撃に晒され、息も絶え絶え……まさに、絶命寸前だった。啊……今までの、ろくでもない思い出の数々が、走馬灯となって脳裏によぎる。せめて【空劫浄土/天国】へ逝けますように……けれど、そんな最悪の窮地に立たされた……と云うか、はさまれた僕を助けるべく、頼もしい〝救世主〟が現れたのだ!
「そこまでだ! 妖怪ども!」
どこからともなく響いた大音声、赤い月明かりに照らされ、廟の入口に立ちはだかる男。
三妖怪は、その声に驚き、ビクッと身をすくませた。
僕も、声の主を凝視し、ハッと息を呑んだ。
「……ま、まさか……」
布で巻き簡単にひとたばねにした蓬髪、黒い道服に革の手甲脚絆、腰には反りのきつい偃月刀、色黒の精悍かつ雄々しい体躯、鋭利で力強い眼光、無精髭に右頬の傷……啊、助かった! 天帝君は僕を見捨てなかったんだ! 道士と呼ぶには、いささか胡乱な姿形ではあったが、僕はその男の登場で心底安堵し、感泪にむせび、歓喜に声を打ち震わせた。
「し、神々廻道士さま! 啊、夢じゃない……助けに来てくれたんですね!?」
神々廻道士は、険悪な表情で、からみ合う三妖怪と僕を睨み、つかつかと歩み寄った。
「蛇那! 蒐影! 呀鳥! この三莫迦が! なにしくさっとんじゃあ!」
そう叫ぶなり、神々廻道士は、なんと三妖怪の頭を、鉄扇で思いきり殴打し始めたのだ。
『ごめんなさい、ご主人さま! 許して……きゃあっ!』
――スパァンッ!
『悪気はなかったのだ! ただ、こいつが……ぐほっ!』
――スパァンッ!
『ちがう! 俺は、止めようとしただけで……おげっ!』
――スパァンッ!
「てめぇも、俺さまの留守中、勝手に上がりこみやがって! ふざけんなよ、破落戸が!」
――スパァンッ!
「いっ……痛ぁあっ! なんで僕まで殴るんですか!?」
「問答無用じゃ、このボケェ!」
――スパァンッ!
「ふぎゃあっ……ひ、非道い! 僕だけ、二発も!」
神々廻道士の一撃で、三妖怪はたちまち人の姿に戻り、頭を押さえ、うなだれている。
神々廻道士の二撃で、僕は情けない悲鳴を上げ、泪目で頭を守り、異議を唱えている。
すると、ますます激昂した神々廻道士が、さらに鉄扇を振り上げ、僕を威嚇して来た。
「もう一発、喰らいてぇか!」
「い、いい、いいえ! 結構です! 本当に、冗談抜きで痛いモン!」
僕は慌てて、防御の姿勢を取り、あまりにも理不尽な暴虐から、逃れようとした。
「なにが〝モン〟だ! それが男の言葉か! イラつかせやがって! さっさと出てけ!」
――スパァンッ!
結局、殴られた。
うぅ、マジで痛い……これで三発目だぞ! いくらなんでも、非道すぎるよ!
これ以上は、堪えられない。無駄な鉄扇攻撃を受ける前に、さっさと退散しよう……と、思ったんだけど、しまった! 白蛇の毒が、まだ効いてる! 体がしびれて、動けない!
「は、はい! すぐに……そうしたいんですが、毒のせいで、体が」と、僕が事情を説明し終えるより早く、瓢箪を豪快にあおった神々廻道士が、僕に向けて口内の酒を噴射した。
「ぶぅ――っ!」
「うひゃあ! いきなり、なにすんですか! うえっ……酒臭い!」
僕は、顔から、衣服の上から、びしょ濡れになり、また鬼去酒の強烈な酒気に中てられ、思わず吐きそうになった。神々廻道士は、なおも腹立たしげな語気で、辛辣に云い捨てた。
「清めの鬼去酒だ! これで少しは、すっきりしたろ! 早く出てけ!」
散々な云われようだが、神々廻道士の云う通り、確かに鬼去酒を呑んだ(気持ち悪いけど、入っちゃったんだよ、口に!)お陰か、僕の体の不調は、一気に吹っ飛んでしまった。
「啊、本当だ……じゃあ、これで……」
僕は、すっかり当初の目的を忘れ、この厄介な状況から早く解放されたい一心で、そそくさと神々廻道士の廟から、出て往こうとした。ところが、ここでまた、事態は急転した。
「いや、待て。やっぱ、殺す」
今度は偃月刀を抜き払い、僕の進路をふさいだ神々廻道士……切っ先を、僕の咽元に突きつけては、とんでもないことを云い出す始末。僕は吃驚仰天し、思わず声を裏返した。
「はぁ!?」
「お前、朝廷の犬だろ」
「えぇ!?」
「あるいは、百鬼討伐隊の密偵」
次々と嫌疑をかけては、僕に不審な眼差しを向ける神々廻道士だ。
僕は、ついつい本音まで吐露して、必死に弁明した。
「ち、ちがいますよ! 僕は、妖怪に騙されて、このボロ屋に連れこまれ……」
啊、いけね! ボロ屋は、ちょっと、まずかったかな?
「ボロ屋だぁ? 俺さまの廟を、云うにこと欠いて、ボロ屋だぁ!?」
うわぁ……やっぱ、かなり……いや、凄く、まずかったよぉ!
「大体、てめぇ! なにが目的で、この俺さまの廟に、不法侵入しやがった!」
「だから、妖怪に騙されて……じゃない! 僕は、あなたに弟子入りし……ぎゃふっ!」
――スパァンッ!
また、殴られた! どうしてこの人は、こうも乱暴なんだ!
「もうやめてください! 僕はあなたと、喧嘩しに来たワケじゃないんです! 今も云おうとしたように、僕は高名な《神々廻道士》さまの……つまり、あなたの弟子になりたくて、この廟を訪ねたんです! それなのに、妖怪に喰い殺されかけるわ、不審者あつかいされるわ……何故、話もろくに聞かず、暴力ばかり振るうんですか! 非道すぎますよ!」
すっくと立ち上がり、僕は勇気を振りしぼって、神々廻道士に諫言した。けれど神々廻道士は、平気の平左。まったく悪びれもせず、口の端をゆがめて、からかい気味に云った。
「何故、てめぇを殴るのかって? 面白いからに、決まってるじゃねぇか!」
僕は、あまりにも理不尽な神々廻道士のセリフに、驚倒し、戦慄し、絶句した。
「あらあら、可哀そうに……早速、やられてるわよ」
「どうだっていいさ。我々に飛び火しない限りはな」
「それにしても、あいつ、救いようのない阿呆だぜ」
僕の背後では、三妖怪が、人間の声に戻って、ヒソヒソとこんなことをつぶやいている。
そうして三妖怪は、最後には声をそろえて、しみじみと云ったものだ。
「「「よりによって、あの男に弟子入りしようなんて……」」」
ちょっと待てよ? 道士なら僕をどうこう云う前に、まず凶悪な三妖怪を、なんとかすべきだろ! いや、でも……なんか様子がおかしい。だって、神々廻道士は最初、確かにあの三妖怪の名前を、呼んでいたよな……それに三妖怪にしたって、廟から逃げ出すそぶりも見せないし……ハッ! まさか……こいつら全員、グルなのか!? そうなのか!?
「阿呆が……その様子じゃあ、ようやく気づいたらしいな」
神々廻道士は、青ざめ瞠目する僕の顔つきから、僕の内心を察知し、先回りして云った。
「えぇっ!? ってことは……やっぱり、お前ら、グル!?」
「〝お前〟とはなんだ、この野郎!」
――バチ――ンッ!
ひぃ痛っ! 今度は、横っ面を張られたぞ! ヒリヒリと痛む頬を押さえ、睨みつける僕を横目に、神々廻道士は、後方に佇む三妖怪を、ヤケにえらそうな態度で呼び寄せた。
「喂、蛇那! 蒐影! 呀鳥! こっちへ来い!」
啊っ! ほらほら、また名前を呼んだ! やっぱり、まちがいない……仲間なんだ!
「こいつ、餌にしてかまわんぞ」
「へ?」
僕は一瞬、我が耳を疑った。
今……なんて仰いました? 道士ともあろう御方が、本当に今、なんて仰いました!?
『本当っすか!』
『うれしいっ!』
『では早速……』
三妖怪は、またまたうなるような獣声になり、爛々と目を輝かせ、僕の周りへ詰めかけた。舌舐めずりする三妖怪に囲まれ、ジリジリと追いこまれ、いよいよ僕は震撼……やむを得ず、神々廻道士に助けをもとめつつも、傲慢不遜なこの男を厳しい口調でたしなめた。
「ま、待ってください! あんた、それでも道士ですか!」
「〝あんた〟とはなんだ、この野郎!」
――ボス――ンッ!
ふぐっ……つかつかと歩み寄った神々廻道士が、今度は僕の腹部に、情け容赦なく拳をめりこせて来た! うっぷ……マジで内臓が、ヤバイって! 僕は苦痛にあえぎ、猛烈な吐き気をこらえながらも、神々廻道士の理不尽かつ暴虐的なやり方を、こりずに非難した。
「あなたは、仮にも道士でしょう? 道教を奉じ、人々を正道へ導くのが使命でしょう! なのに、なんで妖怪なんかに魅入られ、なんの罪もない僕を、こうも苦しめるんですか!」
「だからぁ、云ったろ。面白いから」
くわぁ――っ! 信じられない! こんな男が、道士だなんて……世も末だ! けれど神々廻道士は、ニヤケ顔を突然、鬼の形相に変え、またしても無抵抗な僕に武力行使する。
「……ってか、〝あなた〟とはなんだ、この野郎!」
――ビタ――ンッ!
おへっ……今度は、両手で顔をはさみ打ちされた! 顔が、ゆがみそう……もう嫌だ!
「うぅ、あんまりだ……非道すぎる! それじゃあ、なんて呼べばいいんですか!」
僕は半泣きで、神々廻道士を仰ぎ見、恨みがましい泪声で問いただした。すると神々廻道士は、いかにも勝ち誇った憎らしい表情で、サラリとこんなことを云い放つ始末なのだ。
「偉大なるご主人さま」
唖然……悄然……慄然……呆然……最早、返す言葉もない。
「大体よ、俺さまが、こんなチンケな三下妖怪どもに、魅入られるワケねぇだろ! こっちが隷属させ、日々酷使してやってんのよ! そんなことも判らねぇのか、このクソが!」
暴論だ……暴論の極致だ! そんなの、どう考えたって……、
「判るワケないじゃないですか!」
『『『チッ!!!』』』
三妖怪も、彼の云い草に気分を害したらしく、銘々が三方向に顔をそむけて舌打ちする。
「ご主人さまに対し、口ごたえすんじゃねぇ!」
――スパパン、パンッ!
「ひぃっ! ご、ご主人さまって……勝手に決めないでくださいよ!」
なな、なんて奴、なんて奴だ! 今度は連続で、平手打ちを喰らわせやがった!
「あぁん? てめぇ、俺さまの下僕になりたくて、ここを訪ねたとか云ってたじゃねぇか」
もう、ムチャクチャだよ、こいつ! 云いザマが、いちいち腹立たしいったらない!
「ちがいます! 僕は道士さまに弟子入りしに来たんであって……いえ、もう結構です! そもそも、僕の目は節穴だったようだ……こんな悪逆非道なエセ道士だったなんて、知らなかった……とにかく、帰らせて頂きます! その妖怪どもは、あなたが責任持って退治しておいてくださいよ! さもないと、あなたの正体を、お役人に通報しますからね!」
僕は、ありったけの勇気を振りしぼり、ついに決定的な一言を口にした。
これだけ云えば、いくら横暴な相手でも、少しはひるむはずだ!
そうしたら、さっさと、こんな縁起クソ悪いトコ、おさらばだ!
と、思ったら……甘かった。
「莫迦か、てめぇ」
神々廻道士は、鉄扇を器用に、クルクルと回しながら、吐き捨てるように云った。
「は? どういう意味ですか!」
ついつい気になって、聞き返す僕。(やっぱ、律儀だなぁ……)
「莫ぁ迦、ばぁか、馬ぁ鹿、バァカ!」
神々廻道士は、悪ガキみたいに僕を指差し、皓歯を見せてゲラゲラと笑い出した。
「調子を変えて、何度も云わないでください! どういう意味ですか!」
これに神々廻道士、フンッと鼻を鳴らし、ますます尊大な態度で、しゃべり始めた。
「刃連宿では呀鳥を使い、怪鳥騒ぎを鎮圧したように見せかけ、圦宿では蒐影を使い、鬼憑き騒ぎを制圧したように見せかけ、先夜の『金玉飯店』では蛇那を使い、白蛇退治をまんまと演出……その他にも勢至門町だけにとどまらず、天凱府各地で三妖怪を上手く使役し、名を広め、民草を騙し、多額のお布施を巻き上げ、それを元手に遊興三昧……そんな俺さまの秘密を知られた以上、てめぇを生かしてこの廟から、帰すとでも思ってんのか?」
再び、スラリと抜いた偃月刀の切っ先を、僕の鼻先に突きつけ、神々廻道士は嘲笑う。
「うわぁ……云う必要もない秘密まで、わざわざもらしちゃって……挙句、脅迫する!?」
まさか、そんな……嘘でしょ!? 知らなかった……裏で妖怪どもと組み、そんな悪事まで働いてたなんて、聞かされるまで全然、知らなかったよぉ! この人……いや、人じゃない! 鬼畜だ! 最低最悪だ! 本物の人非人だ! しかもあの目つき……殺す気満々じゃないかぁ! 妖怪どもも睨んでるし……こういう状況を、絶体絶命って云うんだぁ!
「しかし、俺さまは寛大だからな。てめぇの返答如何じゃあ、内臓引きずり出し、頭ぁかち割って、木端微塵斬りに、しないでやらなくもないんだぜ? ん? どうだ? あ?」
この物云い、所作態度、殺伐とした目……こいつ絶対、化他繰りより、妖怪より性質が悪いよ! 啊、終わりだ……一巻の終わりだ! とんでもない無理難題を、命じられるんだ! それで、できないからって理由をつけて、結局は今、云ったように……ひぃいっ!
身元不明の死体となって、憐れ荒野に転がる破目に……いや、妖怪どもにむさぼり喰われ、憐れ魂まで泥梨へ持ち去られる破目に……うわぁん! どっちも嫌だよぉ! 僕はただ凛樺を……愛する妻を、取り戻したいだけだったのに……そのため神々廻道士に弟子入りし、強くなりたいだけだったのに……弱っぴのまま、腰抜けのまま、死んじゃうんだ!
「えぐっ……えぐっ……凛樺ぁ……凛樺ぁ!」
僕は泪と鼻水を垂らし、無様にも嗚咽し始めた。みっともないのは重々承知だ。だけど、どうにも止められないんだ。そんな僕を見て、呆れた三妖怪が容赦ない舌鋒を向けて来る。
『まぁた、泣いてるわ。ホント、男のクセに、情けないヤツねぇ』
『ご主人、そいつは役に立たんぞ。さっさと殺してしまえばいい』
『そぅそ! これ以上、無駄な時間を、かける必要ないっすよ!』
埃まみれの床に泣き伏す僕は、「もうどうにでもしてくれ!」って感じだった。
なにせ、これだけ傲岸不遜な神々廻道士だ。
自分の秘密を守るためなら、僕なんか簡単に抹殺するだろう……と、思っていた。
ところが――、
「哈哈哈哈哈! 面白いな、お前! 惚れた女に振り向いてもらいたい一心で、命まで投げ出す覚悟だったか! なのに、いざその時が来たら、怖じけづいて泣きわめく……なんとも、人間臭くていいじゃねぇか! 大いに、俺さまの気に入るところだ! 望み通りに、下僕として酷使してやろう! 感謝しろよ! ……ぷっ、ぎゃあ哈哈哈哈哈哈哈哈ぁ!」
腹をかかえ、膝を叩き、泪を浮かべ、大笑いする神々廻道士の発したセリフが、すぐには理解できず、僕はキョトンとして泣き顔を上げた。すると神々廻道士は僕の顔を指差し、さらにゲタゲタと莫迦笑いする始末。これは、これは……完全に侮辱されている……悲嘆に暮れていた僕の泪の色合いは、ここから少しずつ、微妙に悔し泣きへと変化していった。
だが、そんなことなどおかまいなしで、神々廻道士は着々と、話を先へ進める。
「じゃあ、まずは氏素性を名乗れ」
どうも腑に落ちない……納得がいかない……だけど、取りあえず今は、逆らわないのが賢明だろうな。この人、どう考えたって尋常な神経を、持ち合わせてないみたいだし……。
(はっきり云って、狂人だよ)
僕は泪をぬぐい、長袍の埃を払い、神々廻道士の前に、敢然と立ち上がって答えた。
「……汪楓白です」
「ふぅん、シロね」
「歳は二十四です」
「はぁ、青二才か」
「住まいは、勢至門町『仁王頭宿』の榊璽通り西『鯉風横丁』の三軒目です」
「ほぉ、売れない文士の貧乏長屋『肥溜め横丁』の三軒目」
「仕事は【劫初内】詰めの文官職で、出身は【劫族】中流階級……」
「へぇ、口先ばっかの賄賂汚職で、血筋はその他大勢と」
「あの……僕の云ったこと、ちゃんと聞いてました?」
「啊、この通り、帳面にも書いといた」
神々廻道士が、僕の目前に広げた帳面、汚い字でこう記されていた……肥溜め横丁に住む汚職役人なんの取り柄もない白面小僧シロ……ムッキ――ッ! もう、我慢ならない!
こいつ、どこまで僕を侮辱するつもりなんだ!
「事実と全然、ちがうじゃないですか! 訂正してください!」
「うるせぇ、シロ! ご主人さまに楯突くんじゃねぇ!」
「シロって……僕は犬じゃない!」
「喂、三莫迦。こいつ、喰い殺してかまわんぞ」
「あ――やっぱ、シロで結構でぇす❤」
畜生! 啊、なんて惨め……こんな無礼千万な奴に、いいようにあしらわれて……後ろでは三妖怪が、クスクス笑ってるし、僕の存在価値が、どんどん下がってくみたいだよ。
「じゃあ、次。お前の兄弟子どもを、あらためて紹介してやる」
だが、やはりそんなことなどおかまいなしで、神々廻道士は着々と、話の先を続ける。
三妖怪を、緊張する僕と対面させ、一人……いや、一匹ずつ、紹介し始めたのだ。
「こいつが《蛇那》……半陰陽の白蛇オカマ」
――ピキッ……あ、笑顔が引きつったぞ。ってか……この娘、雌雄同体ってコト!?
「こいつが《蒐影》……影武者で腹黒い策士」
――ピキッ……あ、口元がピクピクしてる。道士ってば、相手をイラ立たせる天才だね。
「こいつが《呀鳥》……赤刃の怪鳥で単細胞」
――ピキッ……あ、額の血管が浮き出した。どうやら、こいつが一番、気短そうだな。
「こいつが《シロ》……無様で女々しい文丑」
――ピキッ……あ、ついに〝怒り心頭に発す〟だ! 今の悪言は、聞き捨てならない!
「ちょっと待ってください! 無様で女々しい道化役!? あなた一体、僕について、なにを知ったかぶって、そんな罵詈雑言を云い放てるんですか! 前言撤回してください!」
即座に、神々廻道士の偃月刀が、僕の頬へ、ヒヤリとあてがわれる。
「あ――やっぱ、僕が前言撤回しまぁす❤」
ダメだ……こんな脅迫に屈するとは、僕ってば、なんて惨め……これじゃあ、存在価値も薄れるよなぁ……いや、負けるな、僕! この場をしのいで廟から出たら、真っ先に判官所へ訴え出てやる! こんなイカサマ師と、悪逆な妖怪ども、処罰されるべきなんだ!
そう決心した刹那、僕は生涯で、最低最悪の不幸に見舞われた。
――カチャン。
「え……な、なんですか、これ?」
突然、神々廻道士が、僕の首に取りつけた物……それは一見、首輪のようだった。
「首輪だ。見りゃ判んだろ」
あ、やっぱり。
但し普通の首輪とちがい、黒い皮革表面には、不可解な黄金文字が打ち出され、丁度中央部の金具……咽仏の辺りから垂れ下がった金輪には、美しい宝玉が嵌めこまれている。
「いえ、そうじゃなく……なんで僕に、こんなモノつけるんですか?」
そうそう! これじゃあ、まるで、本物の飼い犬みたいじゃないか!
「こいつらとおそろいだ。うれしいだろ?」
神々廻道士が指を鳴らし、合図すると、三妖怪は嫌々といった感じで、己の首に嵌められた同種の首輪を僕に示し、うつむきがちに微笑んだ。なんだか三匹とも、すべてをあきらめきったような、悲壮な笑顔だ。妖怪とはいえ、気の毒になるほど、彼らも嫌なんだな。
……ってことは、だ。絶対的に、うれしいワケ、ないだろ!
僕は、首輪の形状を探り、あちこちいじくり回し、なんとか外そうと試みた。
最後は力尽くで、引き千切ろうとまでしたが、まったく無駄なあがきだった。
「よかったわねぇ、シロちゃん」と、僕の肩に、しなだれかかる蛇那。
「これで貴様も、我々の仲間だな」と、僕の背中を、ポンと叩く蒐影。
「今後とも、よろしく頼むぜ」と、僕の元結頭を、乱暴になでる呀鳥。
ま、まさか……この悪辣なエセ道士が、三妖怪を隷属させてた理由って……まさか!
「その、まさか、だ。お前は晴れて、悪辣なエセ道士さまの、下僕になれたんだよ」
神々廻道士の、嫌味たっぷりなセリフに、僕は震撼した。
「な、なんで、僕の考えたこと……」
目を見開き、冷や汗を流し、生唾を呑みこむ僕の疑念に答えたのは、三妖怪だった。
「この首輪……飾り玉の色と紋様で、ご主人さまには心の声まで読み解けるのだそうだ」
ば、莫迦な! それじゃあ……少しの反逆も、許されないってコト!?
「下手に逆らわない方がいいわよ。ご主人さまがその気になれば、いつでも私たちに罰を与えられるんだから。精々私たち同様、ご主人さまに従い尽くし、暮らしていくことね」
嘘だ……そんな、嘘だろぉ!? 誰か『冗談だよ』と笑ってくれぇ!
「嘘だと思うなら、試しに反抗してみろよ。俺たちにとっちゃあ、面白い見物になるぜ」
いや……なんか怖いから、それはやめておこう……うん、賢明な判断だ。
『『『反抗しろって、云ってんだよ!!!』』』
「ひっ……ひぃいぃぃいっ! また、化けたぁあぁぁぁあっ!」
白蛇、影鬼、怪鳥という、真の姿に戻った三妖怪が、再び僕に襲いかかって来た。
僕はすっかり恐慌を来たし、慌てて廟から逃げ出そうとした。
刹那、神々廻道士の目が、妖しく煌めいた。嫌な予感……それでも僕は命辛々、逃げるのに必死だ。すると彼は、不可思議な印契を結び、逃げる僕の背中に向けて、これまた不可思議な響きの言葉を云い放った。最低最悪の凶事は、まさしくその瞬間に起きたのだ。
「逃がすか! 唵嚩耶吠娑嚩訶!」
「うっ……」
僕は、咽が詰まるような、猛烈な苦痛を感じ、前のめりに倒れた。何故なら――、
「うげぇえぇぇぇえっ! く、苦しい……首輪が、締まる……助けてぇえぇぇえっ!」
そう、首輪が物凄い勢いですぼまり、僕の気道をふさごうとしていたのだ。
しかも、中央に下がる宝玉が光り輝き始め、奇妙な紋様が浮き出しているように見えるが……啊! そんなこと、どうでもいい! とにかく苦しい! 息ができない! 死ぬ!
「だから、云ったろ。お前が俺さまに反抗するたび、俺さまはお前の存在証明たる【本星名】を唱える。するとお前は、その『鬼封じの首輪』に絞めつけられ、半死半生の思いをする。俺さまが許し、解除の呪禁を口にするまで、そいつはお前の首に喰いこみ続けるぞ」
「ひぃっ……ぐっ……そんな話、まだ聞いてません! そんなら早く……許して、師父!」
「あぁん? 誰にモノ頼んでんだ?」
「ぐえぇえっ……し、死ぬ! 本当に、死ぬ! ごめんなさい、ご主人さま!」
「だから、誰に向かって口利いてんだ?」
「いぃいっ……偉大なる、ご主人さまぁあっ!」
息も絶え絶え、声も切れ切れに、ようやくつむぎ出した屈辱的な言葉。
だけど、僕にとってそれは、唯一の救いの言葉でもあったのだ。
神々廻道士は満足げに微笑し、うなずいた。
代わりに、僕の中では、確実に〝なにか〟が壊れていった。
「吽!」
印契を解き、神々廻道士が呪禁を唱えた途端、首輪は収縮を止め、元の範囲に戻った。
僕は、ゼェゼェと肩で息つき、滂沱の脂汗にまみれ、恐る恐る神々廻道士を振り仰いだ。
案の定、笑っている。蛇那も、蒐影も、呀鳥も、笑っている。啊、こんなにも嗜虐的な人間(と妖怪)に、僕は初めて会った……いや、遭ってしまった。不運と云うより他ない。
「……凛、樺……」
そうつぶやいたきり、僕の頭は朦朧とし、視界は真っ黒になり、そして意識を失った。
〔暗転〕
ー続ー