「母」の2個の点は乳房ではない
導入
インターネットや漢字辞典で「母」という字の成り立ちについて調べると、必ずと言っていいほど、母に含まれる2つの点は「乳房」であるという記述に出会う。以下に例を示そう。
・「指事文字です。「きらびやかに しなった腕でひざまずいている女性」 の象形に点を2つ追加したのが「母」 の漢字の由来です。(女の漢字の由来 もご参考下さい)この2つの点は、 両手で子を抱きかかえている姿とも 子供に乳を与えている姿とも言われ ています。その様子から、「子を産み、 養い育てる女性、はは」を意味する 「母」という漢字が成り立ちました。」《OK辞典》https://okjiten.jp/sp/kanji28.html より引用
・「母は乳房をつけた女性を描いた図形〈象形〉。あるいは、女の字に2つの点を入れて乳房を強調した図形〈指事〉。」《漢字源》第六版より引用
しかしこれらは誤った説である。順を追ってそれを示していく。
甲骨文中の「女」と「母」
以下は甲骨文中に見える、女、及び母字である。
字形を見るに、母という字は「女」という字に点を2点打ってできた字であることが分かる。(甲骨文において、右向き左向きの違いは関係ない。)
字形を確認したところで、次に両字の用例について見ていこう。
この甲骨には「貞于女己御」と書かれている。現代語訳すると、「検証した:女己に対して御(祭祀の一種)をする。」となる。
さて、ここで見える「女己」とはなんであろうか?
ここで、他の甲骨を見てみよう。
この甲骨の右から3行目に注目されたい。「庚戌卜⿰南殳貞于母己御子…」とある。文の後ろの方は残念ながら欠損してしまっているが、ここでは問題ない。現代語訳すると「庚戌の日に占って、⿰南殳(人名)が検証した:母己に対して御(祭祀の一種)をして(子…)」となる。文脈から「母己」は先程見た「女己」と同じ人の名前であることが分かる。ところで、男性の祖先は甲骨で「父甲、父乙…」など「父」を冠せられて呼ばれるのだ。よってこの「母己」とは女性の祖先の名前であると分かる。つまり、前者の例では「女」という字が{母}を表すのに使われているのだ。(もちろんだが、女という字には{女}を表す用法もある。)
漢字の分化
もともと一つの漢字だったものが複数の字に分かれることがある。これを「分化」と呼ぶ。例えば「舌」と「言」である。「舌」字に飾筆を加えて、分化したのが「言」字である。(『網絡本 漢字文聲義』https://magnezone462.github.io/myang-qhanshieng/によれば舌字は{舌}と{言}の共同表意字であるという。)
他にも「束」と「東」、「月」と「夕」など多くの類例がある。このような例を考えると、「母」につけられた点は以上の例と同じく「飾筆」であり、特に意味を表すものではないとすべきである。簡単に言い直すと、「女」という字が{女}と{母}の2つの単語を表すのは分かりにくいから、{母}を表すときには点を打って区別しよう!としたシナリオが考えられるということである。
しかし、一つ問題がある。それは分化する際に用いられる飾筆が「2つ」である例が他に見られないことである。ところがこれは大きな問題ではなく、単に図形上の問題として片付けることができる。類例として「豊(豐)」字を挙げよう。
「豊(豐)」という字はもともと太鼓を叩いたときの「ポンッ」という擬音語を表す漢字で、構成要素は義符(その漢字の大体の意味を表す符)である「壴(太鼓の形。「鼓」字にも左側に含まれている。)」と声符(その漢字の大体の音を示す符)である「丰」×2個である。なぜ声符「丰」が2個書かれているのかというのは明らかに図形上の問題である。
このように本来1個だけ書かれるはずの部分が図形的に締まりが悪いからという理由で2個書かれることがあることから、「母」字の点についても本来飾筆として1個書かれるべきだったのが、図形的に2個書かれた考えて問題ない。
本当の「乳房」を表す筆画
以上では、2点を「乳房」と場当たり的に解釈するのではなく、他の字の例を見て法則を帰納し、それを演繹することで考えた。この節ではもっと直接的に、「乳房」ではないことを示そう。
さて、甲骨文中には「乳を子に飲ます様」を象った字がある。この字はしばしば「乳」に同定されるのだが、詳しい論文を筆者は読んだことがないためここでは中立の立場をとる。
字形を見ると、子が口を向ける先に1本の短線があることが分かる。これは明らかに「乳房」を表した筆画である。またこの字を見れば、母字の2点が乳房を表すとすることに図形的な違和感を持つであろう。
結論
「母」に含まれる2点は「女」という字が複数の語を表すことができたために、後に区別するためにつけられた「飾筆」である。また、実際に「乳房」を表す筆画とはかけ離れた写法であるため「乳房」を表すというのは明らかに誤りである。
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さて、いかがだったであろうか。インターネットはもちろんであるが、漢字辞典においても「成り立ち」に関する記述は正しくない記述だらけであり、信じるに値しない説ばかりである(ただし、日本語版Wiktionaryの一部には、古文字に詳しい方が編集された記述が見える)。日本語では学術的で科学的で合理的な字源説を知ることは非常に難しいのではあるが、ぜひ「字源説は正しくない記述に溢れている」という事実を知って頂き、また字源説に出会った時にはまずは批判的な目で見て、考えて頂きたく思う。