傷つくってなんだろう
現実の人と対峙すると傷つくから、
と前の記事に書いていたが、
一体私は何に傷ついているのだろう。
思い返せば、特に学生時代の私は、
「傷ついた」
「傷つくから行きたくない」
「傷つきたくないからやらない」
ということばかり気にして・考えて・思っていた気がする。
私にとって「傷つく」というのは多分、
[自分が否定される]
[認めてもらえない]
[自分を分かってもらえない]
のように私が感じる事とイコールになっていたように思う。今もそう感じることはあるし、全くなくなりはしないけど。
でも考えてみれば、私には私の感覚・考え・感情的に大事なものがあるように、私の前にいる「あなた」にもそれがあるはずで、その感覚・考え・感情の在り方が私と全く同じなわけはない。同じ確率の方が極めて低いに決まっている。
なのに、自分はその事に傷ついている。
私のなにかを理解ってくれないな、否定されるんじゃないか、と感じる度に、想像する度に、「傷ついた」と感じて、泣いたり引きこもったりしていた。
………なんというか、自己の主張・押し付けが強いタイプだ。他人へ求めるものが多すぎるのかもしれない。だって相手は、私と違う一人間だから、同じなはずはない。完全一致に分かり合えるはずはない。それを相手ばかりに求めて、私は相手を理解しようとしていたか?と考えると、怪しい。
それは本当にそうであるはずで、限りなく全てに近いくらい理解し合える、なんて、そんなことはない。そう感じられる関係性はあるかもしれないけれど、自分がそう感じているだけの幻想と言われたらその通り幻想だと思う。
私だって、目の前にいる相手のことを全て理解るのかと言われたら、そんなことはありえないだろう。なんとなくこうかな、とイメージは浮かべられても、それが合っているのかも分からない。完全一致を確認する術もない。言葉を使って聞いても、相手のイメージと自分のイメージも違うだろう。
自分でも自分のことを完全に把握し言語化できていないのだから、そもそもそんなものを求めることが現実として不可能なんだろう。
そういう風に考えられるようにはなったし、一方向的に人と分かり合おうと強く望む事は、傲慢なことと言えるのだと知った。
でも私は、いつでも結局
「自分でない他人に認めてもらいたい」し、
「自分でない他人と」なにか理解し合いたい人間であることは変わらない。それを求めることは、たぶん変わらない。ただ、それができる相手もいるし、そもそも相互理解を求めてない人もいるし、それを望んでいたけれど諦めてカタチが歪んでしまった人もいる。
色んな人がいて、私が求めても一方的だとどうしてもバランスがおかしいから、
自然に、スムーズにうまくいく人とそれを望む方がいいのだ。
自然にスムーズにうまくいく人とは、きっと何も思わないまま快く過ごしてしまっていて、むしろ快かったことも忘れてしまうくらい当たり前になってしまっているかもしれない。私はすぐ、慣れてしまうと大切なことや人や瞬間を、何も思わず通り過ぎてしまうようになりがちだ。いつものですね、にしてしまいがち。きっとそうなんだと思う。
だから、忘れないようにしなくては。
近くにいる人が、
私が何も思わずフツーに一緒にいる人が、
私に心地良さをくれていることを。
何度も見つめ返したい。
あと恥ずかしさはあるけど、
ちゃんと言葉にして
あるいは行動で
感謝を伝えていかなきゃなぁ、
ですね。