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なんか色々考えててのなぐり書き

私は私の好きな人と仕事したいし、好きな人と近況報告するのが楽しみでありたいし、つまり同志、仲間でありたいし、だって楽しいから。ワクワクするから。共有できると嬉しいから。
「この人もこうなったらいいのにな」と思うときは、一緒に喜ぶ仲間が欲しいから。一緒に同じことを喜びたいから。
それってわがまま?でも、自分がこれやってよかったんだよ!をまだ知らない人がいたら感じてもらいたくなる。ちょっとおせっかいかもしれないし、上手くいくとは限らないし、合わない人を無理に合わせたいわけじゃない。でも、共感してくれる人がいるなら、それをシェアハピしたい。

それってなんでだろう?いつからだろう?
高校?大学? なにがきっかけ?

私、自分が感じた「よかった」に、なんというか、かっこたる自信を持ちがちだよなあ。
すごい自己中みたいで牽制すべき感情なのかなとか思うけど、それも違う気もするし。

「よかった」ことを、他人に「わかってほしい!」ってすごくなりがち。だから、口数も多くなりがち。

ネガティブ目な方向で見ると、寂しがりだから?ある意味自信がないから?(他の人が認めてくれないと、自信もってその「よかった」を公に出せない的な)

ポジティブ目に見ると、単純に喜びをシェアできる瞬間ってやっぱり幸せだから?自分も嬉しいし、同じことで目の前の人も嬉しそう、とか、嬉しいの連鎖でしかないというか。

逆にひとりで喜んでも目の前の人が落ち込んでたりしたら、多分それに引っ張られる。感情移入多分しやすいタイプだから。(ドラマとかも、感情引っ張られてしんどくなるから見る気起きにくかったりする)

何かを頑張って、苦しいこともあって、結果嬉しいことがあって、みんなで喜ぶ、みたいな経験を小さい頃からかなり積み重ねてきたからというのもあるだろうし

元々の感受性豊かさもあるだろうし(これは多分「元々」と言っていいはずだ。幼少期なんか見えない何かに話しかけてたらしいし、世界観に入り込みがちだったし(関係ない?))

なんかそうゆうので、私はやっぱり好きな人、尊敬する人に「認められたい」という方向性で頑張っちゃうことも今までかなりありがちで、今も結構。でも、それは100%それが原動力ってわけじゃなくて、自分にとってもいいこと、って納得してるからやってきたはず。

初期段階で納得できないことは、そんなにしてないはず。割とそこはばっさり切り捨ててるはず。

100納得じゃないし、途中辛いと分かってても、いいことがあるってわかってるから、得られると思われるものに魅力を感じてるからやってきた。

だから、人に認められたい、で動いてるのかも…って不安にならなくてよくて、自分が興味あるからやりたいって気持ちが芽生えてるんだと安心して良い、自分。

そんで自分が「よかった」と思っていることとか、よいと思っている価値を広めたい、仲間を増やしたいっていう気持ちだって、胸張って持って大丈夫な気持ちなはずだ。エゴ?って心配になんなくていい、はず、こんなことでエゴと言っていたら何もできなくなるはず。

私は人の「やりたい」っていうwantの気持ちがすごく尊いなあと思うし、そういうその人「らしさ」がどんどん発揮できる、たくさん輝いてる世の中が素敵だな~と思うし、逆にそうじゃないような現実に触れた時おもんないなあ、さみしいな、と思う。そして「まち」っていうフィールドは、たくさんの可能性に溢れていてとてもワクワクするなと個人的に思うし、たくさん輝いてる「世の中」と捉えるより、「まち」と捉える方が自分でも関われる感じがして、しっくりくる。自分ごと化しやすいというか。プラス、まちには実際たくさんの課題があるから、関わる意義もすっごく感じられる。

そんなこんなで、まちで面白く、人間愛のあるコト、新しい価値を生み出すお仕事ができたら、きっといいな、と、現時点の方向性として思っている。私も、もっと仲間になりたいなあ。その一歩目として、一番いい環境を選びたい。

とにかく今の私にはまだまだ分からないこと知らないことがおおすぎる感じだ。

これをやりたいんです!人生かけて!と言えるのは正直もう少しあとじゃないかなぁ。と思う。
今回方向性は仮説を立てれたとしても。でもその仮説はやっぱり覚悟を持ってひとつ立てるべきタイミングだなと感じている。

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