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思い立って資格を取るまでのお話(32)
合格してから
とりあえず、今はこの結果を受けてほっと一安心。ずっと「いつかは取りたい」のままで諦めていた保育士資格の扉を、ぐっと開くことができた。
まだ、保育士としての手続きは必要だ。保育士の資格を名乗るには、都道府県知事宛てに申請が必要で、さらに申請から数ヶ月の時間を要するらしい。だから、登録申請、即名乗ることができる、というわけではない。ここは、自分でも先走りしないよう気をつけなければならない。あくまで今の時点では、「保育士試験に合格した人(申請待ち)」。
ここまでだらだらと、保育士の資格を取ることが最終ゴールのように書いてきたが、私は、これからが本当のスタートだと思っている。ただ資格を取っただけでは、それは宝の持ち腐れというもの。私は何のために資格を取ったのか? ただ、親を反面教師としているから。お世話になった人たちに近づきたいから。それだけではなく、「これから」のことも、ぼんやりとではあるが考えてはいた。今度は、このぼんやりを、しっかり形にしていくときだ。
「社会資源」
「そういった意味では、今ここにいる皆さんが、私にとっては社会資源なんです」
フリースクールのスタッフが集まる会議の場で研修を受けたことがある。そのときに精神保健福祉士だったか、社会福祉士だったか、どちらの有資格者だったかは忘れたが、言われた言葉だ。どの資格でも当たり前かもしれないが、保育士のあり方としても、「専門職としての知識と技能をもつこと」とある。
さて、専門職としての知識と技能とは、一体なんだろう?
保育所の役割は、「子どもたちの生活と発達を保障し、子育て家庭への支援の機能を担う」ことであり、「保育所に入所していない子どものいる地域の住民も支援し、乳幼児の保育に関する相談・助言などを行う社会的役割」が求められる。
場所としてはこのような形だが、これは保育「士」であっても、役割に大きな違いはないと考えている。
私の主なフィールドとしては、フリースクール、不登校関係だし、これは今後も変えるつもりはない。フリースクールという場は、学校に行きにくい・行かない・行けない子どもにとって、学校以外の学びの場という意味あいが(日本においては)ある。その場では、多くの場合は子どもたちひとりひとりの様々な権利が保障されている(フリースクールという言葉のみが独り歩きし、そうでない場もあることは、悲しいことではある)。
子どもの生活と発達を保障することは、子どもという「軸」が中心にあると考えた時に、その周囲がやわらかかったりグラグラしていては、軸は安定しない。おもちゃのコマの軸でない部分がフニャフニャだったり、砂場でつくった山の真ん中に棒を立てて削っていく「棒倒し」「山くずし」などのイメージだ。
では、軸を安定させるには?
今までの私は、この、「軸」だけに特化して添いたい、という考えだった。
もともと自分の親に対して少々異質なものだったんじゃないかという感情があるし、今自分が親としても、子どもたちに「育ててやってるんだから感謝しろ」という気もちもないので、その意味では、たぶん「親」という存在が苦手なんだと思う。今でも自分で「親」と口にするとき、なんだか違和感があるぐらいで、置き換えられる適切な言葉があるのなら、そちらに置き換えて使いたいぐらい(「養育者」なども、「育てている」という感じがするので、あまり好きではなくて)。
コマのしっかりした軸や山くずしの安定した棒を成立させるためには、軸の周りが軸と同じ方向に動くことで安定して回ることや、砂で作った山が硬くてしっかりしていることが必要だ。いくら軸をしっかりさせても、軸と逆方向に動いていては、それはおもちゃや遊びとして成立しにくくなる。
軸が軸であるためには、その周りも、軸と同じように動くようにする必要がある。
この周りが、子どもを取り巻く周囲の環境で、保護者や学校の先生、近い親戚等の人的なものや、各種施設(相談する公的な窓口や医療機関)などの物的なものにあたる。
子どもの健全な成長と思うのであれば、私自身が、子どもを取り巻く環境には何があるか、「つながる先」をもっとよく知っておく必要があると、今さらながら感じている。
これまでも思ってはいたけれど、実行できずじまいで、思ったものの「どうつながっていったらいいか」がうまく体現できなかった。
が、これからはちがう。資格のうえで子どもの健全な成長を願う立場として、「関係各所との連携」という保育士の特性を生かすことにもつながる。保育士という資格を得ることで、堂々と「つながりませんか?」と言いやすくなった気がする。
こんな使い方をしていいのか、恐らくあまりよくないだろう。が、保育士資格は、私にこういった勇気をもたらしてくれているのも、事実だ。
ここが、「子ども好き」と「保育士」との分かれ目のような気がしている。つまり、ママ友Aさんの助言にあった「福祉の視点」ではないか。
日常の中に落とし込む
保育士試験に合格したことを旦那に言ってから、旦那に何かと尋ねられるようになった気がする。
実はその前からも、「それっぽいこと」を言って旦那を説得するのに使っていた。
一例をあげると、「子どもの食と栄養」で得た知識を使って、でも「正しく」使わずにわざと間違えて伝えて、でも信用させた、という「悪用」もしていた。
ええ、ごめんなさい。ただ単に「○○だからだめ」ではなく、「××で××で△△だから、○○はだめ」と、理屈をしっかりつけないと納得しない相手なので、そのための「嘘」として必要だった。
夜、寝るのが遅く(下手すれば3時、4時もある)、そのときの夜食としてラーメンや鶏のソテーなど、とにかく重く脂っこいものを好む旦那。そろそろ年齢も年齢、あまり脂っこいものではなく、それに夜食も控えたほうがいいのでは、と言っても、聞く耳を持たない。
「人より消費カロリー(基礎代謝)多いらしいから、カロリー重視」
と言って飛びきり甘いドーナツ+チョコレートの菓子パンだったり、肉だったり、あまりに偏ってないかと思われる食事に、どうしたもんかと気をもんでいた。
昔からずっとこうだったらしい。が、昔はこれで何とかなっても、今は年齢も年齢、食事の内容をその時に応じて変えていかなければならない。確かに、旦那の事情からしてカロリーも人よりちょっと多めに必要らしいが、それにしたって、そのバランスが悪すぎる。
朝、インスタントラーメンの小袋(スープなどの)の破片が落ちていたり、肉が入っていたトレイなどを見かけることで、私は夜食を食べたんだとわかる。そして、それを旦那に尋ねる。
「食べたよ? 別にいいじゃん、腹減ってたんだし」
まあ、お腹すいてたら寝られないのはわかるわ。けど、それ、日付またいでからだいぶ経っての話でしょ? いくら帰りが遅い(21時でも早いほうで、21時に帰ってきたら「明日の天気は槍ですか?」と冗談が飛ぶぐらい珍しい)からって、夕飯もまともに食べて、さらにそこからラーメンだ何だと食べてたら、消化に負担かかるでしょ? と言ったところで、旦那はまだ聞こうとしない。
そこで私は、嘘をついた。そんな遅い時間から寝ていれば当然も当然なのだが、どれだけ寝ても寝たりない、休みは休みで寝かせろ! と言う旦那に、私は思いきって返した。
どれだけ寝ても寝たりない、すっきり眠れた気がしない、って言ってたよね?
そりゃそうだよ、だって、寝ても体は動いたほうがいいの? どっちなの? っていう状態なんだもん。脂っこいものを食べてたら、寝てる間も体は食べたものを消化するために動かなきゃならない。さらにそこにきて、それが脂っこいものときた。
脂質ってね、三大栄養素の中では唯一、消化に1gあたりで9kcal要するの。それを寝る前に食べて、そこから時間経って寝るならいいけど、食べてせいぜい2時間ぐらいでしょ? そんなに負担がかかるものを食べておいて2時間で寝る、寝ても体は消化すべきなのか寝るべきなのか、結果寝てる間だって動き続けることになるから、そりゃ休まらないに決まってるじゃない。
本音は、寝るときに寝て起きるときに起きて、って一定にするのが望ましいけれど(過去に何度も試みたが、それでもうまくいかなかったらしい)、どうしても無理で夜食が必要なら、せめてお茶漬けなどの軽いものにして。
家庭科や栄養学に詳しい方なら、私のこの指摘が間違っていることに気づいていただけると思う。本当は、脂質は三大栄養素の中で唯一、9kcalを「発生させる」が正しい。私の嘘は「消化に対する負担」として言っているけれど、本当は9kcalは「体にもたらしてくれるほう」。
ただ、こんな嘘でも旦那はすっかり信じたようで、以来、夕飯で自分だけおかずをひとつ増やしてはいても、無謀な夜食は食べていないように思う。代わりに、お茶漬けのりの袋が常時置いてあるようになった。
このエピソードがあってから、さらに私が保育士試験合格を伝えてから、旦那は何かと「こういうときってどうなの?」と、子どもとのことを尋ねてくるようになった気がする。
相手は子どもであっても
上の子、6歳。下の子、3歳。いずれも男児。だからかどうかわからないが、おもちゃの取り合いだ何だの些細なことで上の子が下の子に怒鳴り、下の子が上の子に泣かされる、ということがまあまあある。男児同士のきょうだいに限ったことではないのかもしれないけれど、仲良く遊べるときには一緒にいたずらをするし、それぞれのしたいことをそれぞれで遊んでいることもできる。
あるとき、下の子がマグネットでくっつけて遊ぶおもちゃで、うまくくっつかずに苦労していた。角度を変えたらなんとかくっついたのだが、それを見ていた上の子が、
「磁石って、くっつかないこともあるんやで」
と言って笑っていた。
「そうだよね、全部なんでもくっつきそうだけど、くっつかないこともあるんだよね」
と言ったうえで、私はこう続けた。
(上の子)は、何度もそれで遊んで、「あ、こういうモンなんだな」って知ってるでしょ? (下の子)は、まだそれがわからなくて、だから「これはどうやって遊ぶんだろう?」って勉強しているところかもね。(上の子)は、もうわかっているから、自分で工夫していろんな物をつくったりもできるでしょ? (下の子)はうまくできなくて泣いちゃうこともあるけど、そうやっていくうちにどういう物かがわかって、工夫して遊べるようになるのかもね。
★ (上の子)(下の子)は、実際には名前。
ちょうどこれは、保育所保育指針でも触れられている。あくまで私の覚え方としては、1~3歳は「感触や素材などに親しむ」、4歳以上は自分で工夫をするなど「親しむから一歩先へ発展」。きっちりとその枠に押し込めるのもちがうとは思いつつ、ちょうど異なる枠にある子どもたちの姿からも、「ああ、今はこういう時期」というのが何となくわかり、それを、上の子に理解しやすいよう口に出すことで、「自分のこの思ったことは、果たして合っていたのだろうか?」と、学んできた内容を振り返るきっかけにもなった。
実際に学んだことを、「頭に入れた」だけでは生かしているとはいえない。日常や仕事の中で、そういえばこんなこともあったなとか、あれはこういうなんだなと思って、自分なりに表現や説明をすることで、より強固なものになると思う。
学んだことを日常に落とし込むことで初めて、資格の知識が生きることになると、私は思う。
仕事面でも
2022年10月はじめに、お仕事関係でブース出展をする機会があった。そのときには、他のフリースクールとともに、学校に行けない・行かない子どもでも積極的に受け入れている学校も出展をしていた。
以前の私は、こう思っていた。
「うわあ、同業他社」
他フリースクールについては、同じ目標をもって進む仲間、という感じでむしろ一緒に動いたり、「最近どう?」なんて世間話もできるのに、「学校」とつくだけで、なんだか厚い壁があるような気がしていた。言葉で説明するのは難しいけれど、「学校のみが学びの場ではない」「広く『生き方』『生きる道』としてとらえる」というのが私の中にあり、でも結局学校という場に完結、集束してしまうことのもどかしさがあり、敬遠する存在だった。
これは、あくまで「私個人が」持っている壁。でも、フリースクールを利用している子どもや保護者の方全員が、今は学校に行きにくい・行けないなどの感情を抱えていても、学校から完全に離れた何か、と考えているわけではないだろうし、自分のところだけ、あるいは学校以外の場だけで何事も完結させてしまうのは、それは「子どもの最善の利益」に立っていると言えるだろうか?
と考えるようになった。
いくつかフリースクールを見学されている保護者の方に、「一番うれしいのは、うちに来てくれること」と冗談を挟みつつも、「ぜひ、お子さんが『ここがいい』と言った場所へ行っていただけたら、それが、いちばんいいのかなとも思います」と言っていた。フリースクール同士でなら言えるのに、「学校という場」を含めては言えなかった。でも、もしかしたら、フリースクールで完結することを望んでいる人もいれば、それ以外の道を知って進むことを応援するのも、「子どもの最善の利益」ではないか?
と、ごちゃごちゃと考えているようで、実は「アタックして、こいつ何や? って思われたら恥ずかしいな」という私の性格をごまかしていた。でも、保育士という資格がもつ特性を考えたら、何も怖いものはなかった。午前・午後の2部制だったイベントの、午後開始前に、各学校のブースを回って、名刺の交換と、資料をいただいてきた。
保育所保育指針の総則1(5)に、
保育所は地域社会との交流や連携を図り、保護者や地域社会に当該保育所が行う保育の内容を適切に説明するよう努めなければならない。
とある。フリースクールは保育所ではないし、この指針では保育「所」とあるので一個人に求められるものではないが、置き換えて考えた場合、保育士の特性として、様々なつながり先を知っておく必要がある、と、より強く感じるようになった。このことについては、「社会資源」のところで先述していると思う。
場の勢いや雰囲気もあったと思うが、資料をいただけただけでも、まず私の課題はひとつクリアできた。もちろん資格としてはまだ付与されていないので、保育士を名乗ることも、名刺に肩書きとして記載することもなかった。でも何となく、保育士(試験合格)という強い後ろ盾を得たような気がして、自ら情報として知っておこうと行動ができたのは、私にとっては大きな一歩だ。
これからはもっと子どもに関する他のところとのつながりを広げて行こう! 今なら恥ずかしがらずにそう堂々と言える。