『人がつくった川・荒川』長谷川敦
この本は、今年の青少年読書感想文全国コンクールの今年の課題図書(中学校の部)です。
荒川(荒川放水路)が何故作られたのか?どのように作られたのか?という歴史的なことだけでなく、河川敷は何故あんなにも広いのか? 洪水は雨が降っている間よりも、やんでから起きることが多い、などの話が興味深いのです。
「わたしがこの世を去る時には、生まれた時よりもよりよくして残したい」
という言葉を残したのは、岩淵水門の設計をした青山士(あおやまつかさ)です。彼はパナマ運河の工事に携わり、その時の経験を荒川の工事でも生かしたのです。彼が設計した岩淵水門は関東大震災でもビクともしなかったのです。
工事中に、「そこまでやる必要があるのか」と上司に言われても、自分の考えを押し通した彼のような立派な技術者がいたからこそ、荒川は今も役目を果たし続けているのです。
わたしが通っていた江戸川区立松江第二中学校は、荒川のすぐそばにありました。土手が高くて3階より上に登らないと水面が見えません。近くの2階建ての家の屋根と水面が同じくらいだという風景を、当たり前のものとして毎日見ていました。
小学校くらいの時までは、大きな台風が来ると浸水することがありました。たいていは床下浸水だったけど、わたしが生まれた頃にもっとすごい台風で大洪水になった記憶を大人たちは持っていたから、台風が直撃するという予報があると、前日は大騒ぎでした。学校は休みになり、お父さんは雨戸を釘で打ち付け、1階の畳を2階へ運び上げました。お母さんは電気やガスが止まってもご飯が食べられるように、おにぎりをたくさん握り、子どもたちはロウソクとマッチと懐中電灯と携帯ラジオを準備しました。
本当は非常時なんだけど、どこかワクワク感があったことを覚えています。その気持ちは今も持ち続けています。
令和元年の台風19号は、久し振りに大きな台風でした。家の近所の墨田区に長く住んでいる人たちの間では、岩淵水門を閉めるのか?という話でもちきりでした。家の駐車場では車が心配なので、近所のスーパーの上(3階)の駐車場に一時避難させた人もいました。江戸川区の西葛西に住んでいる友達は、いざとなったら臨海町(江戸川区の中で海抜が一番高い)の友達の所へ逃げると言っていました。
幸い、干潮だったので事なきを得たのですが、これが満潮だったら大変なことになっていました。
ここ数年、日本のあちらこちらで浸水のニュースを見ることが多くなりました。そのたびに泥水で濡れて重くなった畳を運んでいる人たちがいます。「1階の畳を上げる」という作業は、とても意味のあることだったんだなと、今更ながら感じるのです。