『百花』川村元気

 泉は就職して、結婚して、もうすぐ父親になります。実家の母のところには余り足を運んでいないのので、久し振りに行ってみると、あんなにきれい好きだった母なのに部屋が荒れている。花瓶の花は枯れたままだし流しには食器が積まれていて、ちょっと変だとは思ったけれど、その時は余り気にしないでいました。でも、母親は少しずつおかしくなっていたのです。

 それが認知症のせいだということは分かっていても、あの優しくてしっかりしていた母が少しずつ壊れていくのを、泉は受け入れがたく思っていたのです。昔のことはちゃんと覚えているのに、今やっていることがわからなくなる母に、叱ってはいけないと頭ではわかっていても、「どうして、そんなことするの?」と言ってしまう自分にいら立ち、悲しくなってくるのです。


 わたしの母もそうだったなぁと思い出しながら読んでいました。現在の自分が何をしているのか?何を考えているのか?それがわからなくなるのだと母は言っていました。わからなくなっている間に何をしているのか覚えていないから、それが怖いとも言っていました。田舎の実家に帰りたいと言い出したり、ヘルパーさんの悪口を言い出したり、現実とそうではないものが「まだら」になって、とても混乱していたのだろうなと、今は冷静に考えられますけど、当時はそんなことを思う余裕はなかったのです。

 財布の中にレシートや小銭が溜まってパンパンになっていたり、ゴミ出しができていなかったりしたら、認知症の第一歩です。その段階で気づいてあげられれば、薬で症状の進行を遅らせたり、不安な気持ちを和らげることができます。とにかく周りの人が早く気付くことが大事です。

 この本のなかにも出てきましたけど、暴れたり暴言を吐いたりする人は「寂しい」のです。寂しいから誰かを探しに行ったり、田舎に帰りたがったり、自分が大事にされていないと怒るのです。その気持ちを上手く伝えられないから、苦しんでいるのです。


 子どもはいつまでも親のことを元気なままだと思い、親は子どものことをいつまでも子どもだと思っているというのが、日本の親子の典型的な姿であるような気がします。でも、現実は違うのです。子どもは大人になり、親は年老いていき、子どもに帰る。そういう日がいつかやってくるのです。

 この物語の親子のように、たったふたりでも、知らなかったことがいろいろとあるのだから、元気なうちにいろんなことを話すのは大事だなって思います。だって、あの思い出を語り合える人は他にはいないのですから。

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