惑うことを深める。
ずっと自分のために書きたいと思っていたものがあって、それが、キタニタツヤの「プラネテス」について、文字にして考えるということ。今日はそれをあえて、公にさらして書いてみようかと。
「プラネテス」は、たださらっと聴いていたならば、いや、深く考えずに聴くと、素敵なラブソングなのかもしれない。サビは、まさにそういうニュアンスが強いと思うのだが、宇多田ヒカルの「あなた」のように、その対象が恋愛対象だけではないような感覚も少しばかり感じさせる。キタニタツヤの魅力としては、この曲が要ではないことは、楽曲を多く聴いているファンにとっては、少し不本意なところもあるのかもしれない。そこも踏まえつつ、私が何故こんなにも「プラネテス」について考えるのかというと、聴けば聴くほどに、この曲に描かれている背景はどういったものなのだろうか、という気持ちが大きくなるからだ。
今年度に入ってから、特に6月あたりから、アウフヘーベンという言葉を目にする機会が多く、それについて知識の浅い自分は、今深めている段階ではあるのだが、「プラネテス」の中には、このアウフヘーベンが語られる中でヘーゲルの理論の中に出てくる『啓蒙と信仰』が書かれているんだなということに気付いた。というか、アウフヘーベンを深く知るまで、「プラネテス」で歌われている内容を、上手く端的にあらわすことができないでいたので、その言葉を得たような気になったのもある。
その『啓蒙と信仰』を感じる箇所というのが、サビ前にある
死んでしまった誰かのニュースに涙した優しい人たち
這いつくばって生きる誰かの生きているざまには舌打ちをした
海の向こうで起きた悲劇に慈悲をかけ憐れむ人たち
同じ言葉で話す誰かを傷つけてどうして笑えてしまうの?
という、上記2つである。これは、同じ人々の中に存在している相反する行動なのだろうと思うけれども、人の心の中には、こういうアンビバレントとまではいかないが、相反する側面が同居している。これはまさに、自分の中にある天使と悪魔ではないが、先述した『啓蒙と信仰』だなと思うのだ。
各々上段が『信仰』にあたり、下段が『啓蒙』だと思うのだ。ここはなんとなく私が思うことであって、それが正しいとは言えないが、『信仰』が規範や規則を大切にするという観点からいくと、一般的に悲しい事象が起きた時、人々は悲しんだり憐れんだりするものだというところで、上段に記された部分がくるのではないかと。その逆にあたる状態が『啓蒙』であるならば、下段はある意味『信仰』を否定するようなものであるので、そこに対しているのではないかと考えた。
この2つの歌詞のあとにサビが来る訳だが、ある意味サビがアウフヘーベンにあたるんじゃないか、とも思ったのだ。ヘーゲルの精神現象学にあかるい訳ではないので、本当にさわりくらいしか理解していないが、アウフヘーベンという言葉を得て、少しわかった気になった。
サビでは、あなたと主題のふたりにスポットが当たるのだが、このサビにある
信じられるものなど
ひとつもなくても
ふたつの寂しさでも
という箇所が、『赦し』をあらわしていると考えるのであれば、成り立つのではないかと。
この曲は、ドラマの主題歌で、私はそのドラマを見ていた訳ではないので、きっとドラマと連動している部分がきっとあるのだと思う。けれども、ドラマとは関係なしに、この曲だけをあえて聴いてきた自分として、この曲にどうしてここまで引き込まれるのだろうか、というところをずっと考えていたので、その答えが少し出たような気がして、嬉しい気持ちが多少はある。
キタニタツヤの曲は、人の深部を感じさせるものが多い中、この曲は、そういった部分が少ない方の曲だと個人的には感じている。そうだから、なのか、だからこそ、なのか、簡単に理解できそうでありながら、何か考えさせる余地を与える構造になっているのかもしれない。
とやかく色々書いたけれども、ま、単純に「プラネテス」は楽曲として、キタニタツヤに入っていくのには、ある意味平易な曲の1つでもあると思うので、「青のすみか」が呪術廻戦アニメ第2期のオープニングになったのこともあるので(こちらの方がすんなり入れるとは思う)、合わせて聴いてもらえたら、とキタニファンの期待を込めつつ。