『映画』#随筆
映画をよく観る。
とはいえマニアと呼ぶには程遠く、頻度も2週間に1~3本くらい。それらも映画館ではなく、自宅のPC(サブスクリクション)経由で鑑賞している。
元々映画館にも足繁く通う様な人間ではなかったが、コロナを機にめっきり外に出なくなったので映画館にも自然と行かなくなり、自宅で映画を見るのに慣れてしまった。そもそも映画を見るのと映画館へ行くのとでは、得られる経験値が違うのでイコールではないと思っている。
映画を観るのは好きだったので、一昔前はTSUTAYAに良くお世話になった。そして今はサブスクリプションの世話になっているというわけだ。人間って一生世話をかける生き物なのかもしれない。
ある日何をトチ狂ったのか1日で8本程ホラー映画を見腐った時があり、最後の映画を見終わった瞬間鋭角を伴った鈍痛と脳味噌がぶちぶちと音を立てて捻じ切れる感覚に襲われたので、次は体力気力を万全にして挑みたいと思う。
※健康な人間はマネしないでください。
まあ折角ここは好きに文章を書いておける場所なので、この珍獣のこれまでの「映画鑑賞」を振り返ってみようと思う。
▪映画の選び方
既知の作品を作業BGMとして垂れ流している事もあれば、友人知人に勧められた作品を観たり、全く知らない映画をなんとなくで観始めたりと、法則性のないアトランダムな選び方をしている。
こうなる理由には二つ心当たりがあって、一つ目は「ジャンルに拘りがない」こと。二つ目は「気分で映画を見ている」ことだ。
一つ目について、これは拘りがないというより苦手が少ないという方が正しいだろうか。見てられないとか、どうしても嫌だな、というジャンルがあまりない。ゴア・排泄物系統は飯時には見たくないな~、ぐらい。
勿論スプラッターな場面では顔面が梅干し並みに皺くちゃになるし、ジャンプスケアをかまされればちゃんと「ゥワァッ!?」と跳ね散らかす。心臓に悪かろうが、それを体験したくて映画を見ているので、感性が鈍いわけではないと思う。そう信じたい。
二つ目は説明の必要もなさそうだが、凹みたい時は不条理系胸糞映画を観みるし、張りつめる様な緊張感が欲しければホラーやサスペンスを観ている。泣きたい時は泣けるような映画、懐かしい気持ちに浸りたければ古き良きアニメ映画を観る。見たい映画がある時はそれを観る。まさに気分で映画を見ている。実に単純な生き物だ、前世はきっと単細胞生物に違いない。
とまぁある種雑食ではあるのだが、選ぶ時は一応映画自体の評価・評判というのも偶に確認している。「大衆にウケている」というのも馬鹿にできないのだ。大多数の意見もそれだけ面白い何かがあるという事の証明であって、これは映画以外にも通ずるだろう。逆に酷評されている物にだってそれなりの理由があるはずだ。
と、言いつつも正直アマプラのレビューや評価はあまり当てにしていない。矛盾する意見で申し訳ないが、所詮は人の好みで付けられた評価に過ぎないので、あくまで基準として確認している。他人にとってはクソ映画でも、自分にとっては最高の娯楽である可能性は捨てきれない。
だからなるべくアトランダムに、評価ではなく「自分が気になったかどうか」で選ぶようにしている。
観た後の感想は俺だけのものなので、そこはブレない様にしたい。
▪映画の観方
映画の観方は様々だが、俺は家で観る際滅茶苦茶独り言を言いながら鑑賞している。情報や感想を整理するのに「頭の内容を声に出す」癖があるからだ。無論声の出せない状況であれば黙って見れるのだが、読書なども音読した方が頭に入るので、そういう性分なのだと思う。
映画館なら摘まみ出されてもおかしくない蛮行だが、家でなら単なる独り言、やりたい放題というわけだ。サブスクの恩恵様様である。
独り言の量だが、推理・謎解き要素のある作品程多くなる傾向にある。一般的な人でもまあ声に出ることはよくあろうが、こっちは筋金入りの頓珍漢なので、複雑な作品ほど訳が分からなくなって脳内が「?」で埋め尽くされてしまい作品を楽しむ余裕がなくなってしまう。口から永遠と独り言を溢し逐一情報を整理しながら観たほうが頭に入ってきやすいのだ。
情報整理でなくとも、大きな声を出しながら映画を見るというのは中々いい物で、初めてアニメーション映画の「応援上映」というものに触れたのがそれのきっかけだった。それまではレンタルしたDVDを家で観る時も、どことなく声を出すのを抑えていたような気がする。
アクションやコメディものでは、遠慮することなくツッコミを入れたり登場人物に語り掛けたりする。作中で何かの異変に気が付いたキャラに対し「だよな!?お前もそう思うよな!?」とか急にそのキャラの真横にいるぐらいの熱量で喋り出したりするので、傍から見てたら変人以外の何物でもない。
コロナという時代背景も大いに後押ししたのだろうが、多かれ少なかれ訪れたであろう「家で沢山映画を見る」というのが一般的になった事で、このような頓珍漢には余裕をもって作品を楽しむ空間と、声を出して鑑賞することの楽しさが提供された。嬉しい誤算だ。コロナの糞野郎は一生許さんが。
▪映画館とサブスクの違い
上記に書いた通り、自分の性質上「映画館で鑑賞すること」と「家でサブスクを鑑賞する」というのは得られる経験が大分違う。
映画館は「長時間椅子に拘束された状態で大画面から情報を浴び続ける」事を主にしているので、肉迫する様な迫力・緊張感が家で観るのとは比べ物にならない程の経験値が手に入る。もはや一つのアトラクションと言っても過言ではない。
家での鑑賞は一時停止や巻き戻しという利点があり、緊迫感に耐えきれなくなったら止めてしまえばいい。得られる経験値は少なくなるが、代わりに作品を深く理解することや見たいシーンを繰り返すことで得られる経験値がある。
どちらにも利点があるので、見たい映画の内容で分けるのが丸い気がする。
余談だが、俺はエンドロール終了まで座っている派だ。理由は「Cパートがあるかもしれないから・劇場が明るくなるあの瞬間が好き」だから。
途中で退席する人にも特に思うことはない。人によって観方は違うのだし、その人だけの経験を他人がとやかく言うのも違う気がする。
好きなアトラクションを選べばいい。
▪映画好きになったきっかけ
思えば映画館という場所に幼少期は殆ど訪れたことがなかった。一番古い記憶では、映画館そのものの仕組み自体よく理解できない程の歳で、上映中に席から勢いよく立ち上がって何か楽しそうにしていたのはぼんやり覚えている。
まぁそれが原因で映画館へ連れていかれなくなったのかもしれないが、今では知りようもない。そこから少なくとも、中学を卒業するまでは映画館に行った自覚的な記憶はない。わざわざ自覚的と付けたのは、中学卒業まで本当に断片的な記憶しか思い出せないからだ。病気ではないと思う(そういった疾患が無いわけではないだろうが)し、歳のせいにするにはいささかケツの青さが気になる。
家族も映画館に行く人間ではなかったが、父方の祖父は一日中テレビを点けっぱなしにする昭和気質の男だった。
祖父母の家に泊まって夜中に目が覚めると決まって真っ暗な部屋の中で炬燵でタバコを吸いながら良く分からない「暗い」映画を観ていた。今思えばその「暗い」ってのは、多分なんたら洋画劇場とか、昔の任侠ものだとか、そういう類の「暗さ」だったんだろう。
祖父が映画を楽しんでたかどうかは分からないが、その背中がなんとも渋くて大好きだった。
遺伝か元来の気質か、父親には映画を借りてはダビングして収集する趣味があった。映画自体に興味があって観ているのか、ダビングという技術、ないしは機材をいじるのが好きだったのかは分からない。新しい物に触れる刺激に飢えていたのかとも思うし、父親なりのコミュニケーションだったのかもしれない。一緒に映画を観た事はほとんどないが。
母親はそういう物を全く見ない人だった。アニメ・映画・ドラマにも興味がないし、ゲームも読書もしない。元々運動が好きな人だったのもあるかもしれない。歳をとってから少しずつ気になり始めている様だった。母方の祖父母も畑で作業する方が性に合っているようで、映画を見る様な事は一度もなかった。
きっかけ、と目次にある割に決定的なイベントが無くて申し訳ないのだが、現段階では父方の遺伝と環境によるものな気がしている。大人になるにつれ、なんとなく映画を見る機会が多くなっていった。時間潰しに丁度いいからなのかもしれないし、無意識の寂しさを紛らわせているのかもしれない。判断材料の少なさ故に断言できないのが悔しいが、所詮凡人なのだから、こんなところだろうという気もしている。
▪映画の何が好き
その世界への没入感と、他人の頭を覗いている感覚が好きなのだと思う。一般的な人生では決して味わうことのない音圧(日本で生きている以上銃声を聞く機会は殆どないだろう)や緊張感を味わえるし、自分じゃ思いつきもしないキャラクターや脚本に触れては痺れ、暴れ散らかしたい衝動を観る事で発散している。
抽象的で言語化出来ないのだが、時折自分の内面をぐちゃぐちゃにしたい欲求が湧く。これが暴れ散らかしたい衝動の元だとは思う。自分の考えを肯定・否定され何かと比べられ、問い詰められたい。なんか危ない人みたいだが、そんな変な事でもないように思う。
人間は常に何かと自分を比べ、比べられて生きているので、その比べている物差しの頑丈さを確かめたくなる。それを確かめられるから、または物差しの在り方を考える事が出来るから、映画を見るのが好きなのだ。他人の頭の中を覗いて、自分の頭はどうかと考える。
こうなったほうが素敵なのではないか、こうなれば住み心地がイイのではないか、感情や思考という家具をああでもないこうでもないとセッティングしていく「脳内どうぶつの森」をしているのが、俺にとっての「映画の好きなところ」だと考える。
何一つ核心的な情報のない散文で申し訳ないが、生きていけばこの考え方も変わってくるので、今思ったことをとりあえず吐き出させて欲しい。
あと単純に気持ちがいいからだな。映画を見るのは。
▪繰り返し見る映画
前述したとおりジャンル問わずアトランダムに観ているが、その中でも好きで繰り返し見ているという作品。多分アニメーション映画が多い。黄金期に産まれたから一番親しみやすくて、安心するからだと考えている。古巣なのだ。
アニメーション映画
風邪ひいたり体調が悪い時は、何故かドラえもん映画冒頭の「ドラえも~~~~~~ん!!!(テレレテレレテレレテン!!!!)」というのび太のあの声と絶妙なイントロが聞きたくなる。あれは最早一種の芸術だ。聞くと思わず「ヘヘっ」と湯豆腐の様な笑いが口から零れる。
「クレヨンしんちゃん」映画のギャグとシリアス・シュールさの配分にはいつも驚かされている。一番好きなのは「嵐を呼ぶジャングル」なのだが、この作品に出てくる悪役「パラダイスキング」が、俺の中でのキングオブ悪役の座に永遠に座り続けている。あいつは子供向け映画の悪役として完璧すぎる。ちなみにcvは大塚明夫さん。完璧すぎないか?
ピクサー映画の「WALL・E」という作品もべらぼうに好きだ。感情豊かなロボットにめり込んだのはこれが原因だし、主人公のいじらしさは悔しいが天下一応援せざるを得ない。恋愛映画はあまり見ない人間なのだが、あれはれっきとした恋愛映画だと思う。まさかピクサー映画であんな純愛ぶつけられるとは思わなくて、初めて見た後は「俺の負けだ」と謎の敗北感を覚えた。
1980~2000年代のアニメーション映画は、今見てもグッとくるものがある。あの時代特有の利権の緩さや「毒」染みた笑いや脚本、一筋縄ではいかない登場人物たちの魅力は筆舌に尽くし難い。世代だからというのも後押しして、悔しいが何度も観てしまう。今の方が凄まじい映像技術があるにも関わらずだ。
そもそも子供向けと呼ばれる映画の方が制作が困難なのではないかと思う。子供にも伝わるような情報の言い回しを考えたり、分かりやすい展開を考え、それでいて大人も楽しめる内容にしなければならないのだから、並大抵のことではない。
そういった作品が子供を侮り始めたり、逆に変に大人向けを意識し出すと途端に凡作~駄作になってしまうのだから、絶妙なバランスで作られているのが良く分かる。シリーズものということも手伝って、ある意味ブランド意識もしなければならないのだから大変だ。
洋画・邦画
他には「マイ・インターン」という洋画が好きで何度も観ている。
俺はアン・ハサウェイが滅茶苦茶に好きで、彼女は現代で魔女裁判が起きたら真っ先に処刑されてしまうであろうと考えている。それぐらい美しさが変わらないのだ。
「プラダを着た悪魔」での彼女が美しく垢抜けていく様には泣きながら拍手したものだ。美しすぎる。あの街の全てが彼女の為の舞台セットになっている。
とはいえ、彼女見たさだけで観ているわけではない。この作品を見ると単純に元気が出るからだ。主演のロバート・デ・ニーロが演じる老紳士ベンが、若者ばかりの慣れない環境に温かく馴染んでいく様は何度見ても尊敬の念を禁じ得ない。
他には「エイリアン4」をビデオが擦り切れるほど見ていた。VHSが既に世に通じるか分からないが、幼少期に何故か自分の部屋に録画した物が置いてあって、なんとなく見始めて毛が逆立つほどの衝撃を受けた。
今でも人外と人間が協力して何かを成し遂げたり、到底太刀打ちできない脅威に立ち向かうのが好きなのはこれが理由な気がする。
俺の「強い女好き」も言わずもがな、この主演のシガニーウィーバーによって形成されている。倒したエイリアンの口に手を突っ込んで生殖器をぶち抜いて「お土産にする?」とほほ笑む彼女が俺の初恋だ。そんなもの初恋にするな。
邦画、というか特撮だが「ゴジラ」シリーズが好き。庵野監督の「シンゴジラ」は8回以上映画館に足を運んだ。あれは映画館で観るのが俺の正解だった。オチでやりましたねえ!とはなったが、監督自身が重度の特撮オタクなのである意味安心して観る事が出来た。
とまあ好きな映画について語ると文字数がとんでもないことになるので、ここではよく見る映画として挙げるにとどめる。また後日感想として書きたい。
▪終わり
散文を書き散らしているだけなので〆の言葉が難しいが、映画を観ることが趣味でよかったと思う。何某かの糧になっていると思うし、単純にコスパに見合った娯楽でもある。
他人との会話でも映画は一般的な趣味に入るので、話のタネに困らない。映画の感想は聞くのも言うのも好きだ。
今後は見た映画の感想を書いて行こうと思う。#映画 とか文末に付ければ見やすいかな。
終わり。