10代からの夢を叶えた話
いつか何らかの形で残しておこうと思っていた話を書くことにします。とても長くなりますのでご容赦ください。
小さい頃の話から始まります。
自分が育った家庭は自分が小学生低学年の頃にはこの家は貧しいと自覚出来る家で、経済的に特に厳しい時期は生活保護の世話になっていたこともあります。家族は両親と妹、弟の5人家族。引っ越しが多く2Kのアパートで窮屈な生活を送った時期が最も長かった。
父親は仕事が長続きしないタイプで転職回数は20回以上。起業をすればバブル崩壊の時期に失敗。
母の方は自分が物心ついた時には統合失調症になっており症状の重い時は大声で叫んだり暴力を振るわれたり、外出すれば何をしでかすか分からなくなるほど症状が酷くなると入院させ、寛解すれば退院の繰り返し。受け入れ先の病院が母の実家である青森になった時は電車を使う訳にもいかず千葉からタクシーで行ったことも(35万円ほどかかった記憶)
そんな家庭で育った為、飽食の時代と言われた中でも基本的にお腹は空いていて学校給食が無かったら相当厳しかったと思う。
母方の実家から米や野菜を送ってもらったりもしていた。小遣いなんて無かった。
父親は会社を潰してから仕事に窮し生活費の為にサラ金数社から借り入れており当時小学生の自分が「督」の字を知ったのは届いた【督促状】が読めずに辞書で調べたからだったのを覚えている。
兎に角その頃はこの先の数日間食べる物があるのか、家に居てもつらい、父親はいつ働くのか、諸々の支払いが滞納しているのを知った時の不安、母親の病気は治るのかそんなことばかり考えていた。楽しい思い出も無くは無いけど子供の頃に戻りたいかと言えばノー、あまり思い出したくもない。
家族会議で父親から一家心中の計画を相談されたことがあった。それも二度。
全員で海にて入水するとのことだった。
長男である自分は「子供ら(妹、弟)を巻き込むな」と断ったのを覚えている。産んでおいて身勝手な話だと腹がたったし、そこまで追い込まれているのかとも思った。
子供には殆ど何も出来ないし近くに頼れる親戚も居ない。80年代~90年代前半は辛かった。耐えるしかなかった。グレる余裕も無いんですよね。グレるのは大抵が物か心に余裕がある家庭で。
中学に入ってから間も無く将来の方向性を固めた。手に職をつけて働くしかないと。工業系の高校に進んで就職先を探すことに決めた。
同級生の殆どが普通科に進学する中で自分の選択肢の少なさに気付いても反面教師である父親のようにはなるまいという気持ちが強かった。進学した高校で美術教師から京都芸術短期大学(当時)の推薦を持ち掛けられた時は惹かれるものはあったものの学費や生活費、そこから先が想像出来なかったので辞退した(芸術という進路選択に罪悪感すらあった)。でも、とても嬉しかった。
進学した高校に寄せられる求人数は前年比で激減しており、成績上位の者から第一志望を選べる決まりで幸い自分は上位だったのでスムーズに進められた。就職氷河期と言われ始めて間もない頃で実業系の高校に進んでおいて良かったと思う。ちなみに就職先は一部上場企業(当時)で選んだ理由は「国が客だから(容易く倒産はしないだろう)」「運転免許が不要だったから」。
ここでタイトルにした「10代からの夢」についてようやく触れる。
極めて単純で、「普通の暮らしをしたい」。
「普通」と言っても人それぞれだろうけど、衣食住に困らず出来れば結婚して子どもが出来たら自分が子どもの時のような思いはさせない。それだけ。
気がついたらそれが叶っていたと言うか、最近になってようやく叶ったと言っていいかも知れないと思えるようになった。
ささやか過ぎるかも知れないけど自分の課題なので他者の評価は関係ない。
こんなことを書いてしまうと何だか身辺整理のように思われるかも知れないけど、自分が長い間考えていた事を文字に残してみました。
小中学生の頃の自分に会えたとしたら、大丈夫だからと一言だけ言ってあげたい。