母親のこと、統合失調症のこと
前回の投稿の続きとしてこの記事を含めて幾つか綴ることにしました。
(前回の記事はこちら)
【10代からの夢を叶えた話】
今回は自分の母親と統合失調症について。
自分が小学校に上がる前から母親は統合失調症になっていたようで、症状が重い時の一番古い記憶では自分が4~5歳の頃だと思う。青森から母方の祖母が来て居た。
「統合失調症」と今では言うけれど当時は「分裂」と呼んでいた記憶がある。調べてみると実際にそうだったようだ。
(参考リンク 日本精神神経学会)
https://www.jspn.or.jp/modules/advocacy/index.php?content_id=58
それ以前の母親の状態がどうだったかはあまり憶えていない。ヒステリックになることはあったような気はする、父親が家を空けがちでお金が特に無い時期だった中でも生活出来ていたので発症していなかったのかも知れないし、本人も周りも気づかず進行していたのかも知れない。
本州のほぼ北端で産まれ育った母親がどうやって関東で父親と出会ったのか実は最近まで知らなかった。なんとなく、ろくでもない出会いのような気がして自分から触れなかったのだ。こういう話は妹の方が詳しかった。
実際の所は母親が家出して上京中に父親と出会ったのだった。母親は若い頃は容姿が良く、地元の百貨店で婦人服のモデルになったこともあった。青森から東京に出て来てもモテたのかも知れない。写真を見る限りは可愛いと言うよりは陰のある美人という感じだった。
フォークが好きで高校では軽音楽部に入っていたらしい。部活以外に琴も習っていて着物姿で弾いている写真を見たことがあったのをこの記事を書いていて思い出した。琴も母方の実家で見たことがある。
母親は故郷の青森に居た頃、普通免許を取り立てで街の婦人服店に突っ込んで店を潰してしまい、店の売り物を100万円で引き取って友人知人らに売り歩いたと聞いた。それ以来ペーパードライバーと言うか更新せずに失効したのだと思う。時系列を整理すると家を飛び出したのはこれから間も無いと思われる。すぐに話が拡がる田舎の狭いコミュニティには居づらかったのかも知れない。
両親は自分を産んだ後に入籍したのだが、母親の実家では家出してから一向に帰って来ない娘に気を揉む中、その娘がまだ赤ん坊である自分を背負って見知らぬ男と上野公園の不忍池の屋台で働いている姿を全国ネットで放送された番組で目にし、親族一同に安否が知れ渡ることとなった(笑)
呼び戻されてその後に結婚式を挙げた。
母親について自分が知っているのはこれくらい。今思うと母親がどういう人なのかよく分からない。
健常者でないため母親とまともに会話が成り立つ時間が短かかったし、大人しい時でも正気なのか怪しいこともあったので仕方ない。
音楽は古くは山崎ハコ、若い親なのでTMネットワークも好きだった。漫画は楳図かずおが好きだった。調子の良い時期は話が合うこともあったし本当ならもっと面白いことが聞けたんじゃないかと勿体ないなと思う。
何がきっかけで母親が統合失調症になったのかは分からない。
ドーパミンの分泌が過剰だとなり易いと言われていて、先述の祖母が来た頃は心身が耐えられなくなって初めて重い症状が出たのかも知れない。そうなったのは体質なのか、或いは貧乏生活でのストレスが引き金になったのかも知れない。担当の精神科医からは育児ノイローゼという話も聞いた。自分はと言うと、自分の父親に原因があるような気がしている。父親についてはこの記事とは別に書こうと思う。
母親の症状は妄想や幻聴、発作的に怒鳴ったり暴れたりすることがあった。着衣のまま入浴していたこともあった。自分が寝ていると背中をつつかれる感触があり、振り向くと包丁を手にして目の座った母親がしゃがんで居たこともあった。この時はもう本当に面倒臭かったのでそのまま寝た。
困るのは徘徊で自分が中学生の時、体育祭の早朝に軽トラックに撥ねられたことがあった。相手は仕入れから帰る途中の青果店で、親が撥ねられておきながらも相手方に申し訳ないと思った。怪我は踵の部分と大腿部が欠損して踵には装具を、大腿部には尻から植皮する手術を受けた。服用している薬のせいか麻酔が全く効かずにとても痛かったらしい。この事故の怪我で身体障碍者になってしまった。
精神科への入退院は何度も繰り返した。
入院病棟への扉はぶ厚くて重く、病室の窓からは外に出られないようになっていた。他の入院患者とお話したこともあった。一見して具合が悪いようには見えない人も居た。
どういった治療方針なのかは知らなかったが、母親の場合は症状が軽くなったら退院して手に負えなくなったら再入院。この繰り返しだった。
母親は時折調子が良くなると内職をしたりパートに出たこともあった。(再発するので長続きしなかったが)病みながらも金銭の悩みは付きまとっていたのだと思う。生活苦と精神疾患の関係は深いように思う。そして、これはおそらく治らない気がしていた。
自分の将来を意識しだした頃には母親の病気が妹や弟を含め自分達に遺伝しないか不安にもなった。
母親は2007年に51歳で他界した。自宅でのことなので警察が来る訳だけど事件性は無かった。長い間、薬漬けだったので弱っていたのだと思う。
この直前の発作が最も酷く、仕事中の妻から泣きながら電話がかかってきた。妻の職場に母親が現れて騒ぎ出しどうにもならなかった。
自分も仕事中で急いで帰っても2時間以上かかる。父親に電話をかけても繋がらず、近くに居る弟に繋いだと思う。
この件で自分が最優先で守るのは親より妻であって、父親も自分の妻である母親に対してそうでなくてはいけないと父親を責めた。
母親の他界に際しては一度も泣いていない。
母親の兄にあたる叔父も言っていたのだが、ホッとした思いが強い。
治らないまま高齢になった未来を考えるとかなり厳しいものがあった。ただでさえ母親と歳の離れた父親の将来に不安があったので尚更だ。
結婚前から妻にはこういった家庭の事情を話しており、迷惑はかけたくない気持ちはあるものの、長男であるがゆえに避けて通れないものがある。
母親について今も思うのは、「この人の一生は何だったんだろうな?」ということだ。楽しい時もあっただろうけど幸せだったんだろうか?
統合失調症については母親よりもショックだった例が他にある。
長い付き合いの親友だった。
海外の大学から帰ってきて日本でこれから何を始めるのか、自分より賢いし何より裕福な家庭なので将来凄いことをするんじゃないかと楽しみにしていた。留学時は文通していて一時帰国時は必ず会っていた。
彼の帰国後、会う度に少しずつ様子がおかしくなっていった。
盗聴・盗撮されている、狙われている、と真面目な顔で言うのだ。
どういう状態か既に親との経験ですぐに分かったが、まさか彼がそうなるとは思いもしなかった。
治療薬の作用からか引きこもりがちになり、比較的大柄な自分より体は大きくなっていきそれを恥じてか中々会えないこともあった。
体形は気にしてないよと少しずつ会う機会を作り話を聞いていると留学時の失恋、帰国後の将来について。成功している父親への複雑な思いがあることが分かった。(真偽は兎も角、実際抱え込んでいる問題である場合が多い)
どうにか穏やかに自宅で家族と生活していたある日、彼は突然亡くなった。
就寝時に吐いたものが気道に詰まってしまったという。
この頃は流石の自分もキツかった。あんなに泣いたことは無いし暫く落ち込んで酒に逃げたこともあった。
不幸な事故ではあったけれど家族の下で静かに暮らせていた彼は不幸には思えなかったのが救いではあった。家族だけの葬儀にも呼んでいただいて小さい頃の玩具や読んでいた本などが並べられていたのも、良い家庭で育ったんだなと何だか羨ましかった。
自分の過去を振り返る一環で書いた2本目の投稿となりました。
お読みいただきありがとうございます。
統合失調症について何かアドバイス的なことを書くことも考えましたが、一概に述べるのは適切ではないと思い止めました。
最後に今身近な人が統合失調症で誰にも相談できていない人に参考になるかも知れないリンクを紹介しておきます。
(厚生労働省:家族や友人が統合失調症になったとき)
https://www.mhlw.go.jp/kokoro/know/disease_into_sub2.html
(すまいるナビゲーター:回復を促す家族の接し方)
https://www.smilenavigator.jp/tougou/family/