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わたしは何にも、極めない。
わたしは、何にも極めないことを極めたいと思っている。いや、違うな。’極めない’のだから’極めないことを極める’こともない。何でも中途半端である。
早朝ランニングが趣味だが全くタイムは速くないし、ポケモンが好きなのに名前を知らないキャラクターだらけだし、チケットを買ってわざわざ遠方に出向くほどサッカー観戦に熱いがルールや戦法にはビックリするくらい疎い。それでも全く恥ずかしくないし、悔しくもない。ただただそれぞれに愛情があるだけだ。
極めないというのはつまり、誇れるほど執着するものを何も持たないようにしたいということである。
わたしには、執着心、競争心、所有欲がほぼなく、他人目線を気にすることもない。他者と向き合うよりも長く、自分と対話して生きやすくなったポイントはそこかもしれない。もしも何処かに今生きにくさを感じている人がいて、その人の考え方の小さな刺激になることもあるかも、と思って記事にしてみている。少し長くなるけど、もしよければ、とあるサンプルの一つとして楽しんでもらえれば幸いだ。
(あくまで、わたしの場合の話である。こうすればいいよ!と偉そうなことは言えない。)
執着心
わたしがこの「執着心」を手離そうと思ったのには、こんなきっかけがある。
小学校くらいまでは漫画やゲーム、おもちゃや洋服、文房具など「これが欲しい!」と親におねだりして駄々をこねたり一つ年上の兄と取り合いの喧嘩をしたりしたのだが、かなりの粘り勝ちで渋々買ってもらえたモノや兄が我慢をして譲ってくれたモノが手に入った時、いつも何となく居心地が悪かった。一瞬は「これが欲しい!」という欲が満たされて嬉しくなるのだが、それが何かの犠牲の上にあることを忘れられずにスッキリしない心持ちになるのだ。そういうことを何度も経験しているうちに「ワガママを通した先にはモヤモヤが待っている。そんな気持ちになってまで欲しい物ではないかもしれない。」と考えるようになり、執着しなくなった。これじゃないとダメだと感じたとしても、それは自分の妄想だ、それじゃなくても大丈夫だ、と自分に言ってあげられるようになった。
(いや、正直に書くとはじめのうちは「あれ欲しいけど、それよりもモヤモヤした気持ちにはなりたくないから欲しがらないでおこう、我慢しよう」からのスタートだった。子どもらしく「やりたい、したい、欲しい」と煩悩だらけだったのでモヤモヤした気持ちにならない範囲ならば何でも欲しがっていた。賢く聞き分けの良い子どもだったわけではない。
しかしたまにでも遭遇するその’ちょっと我慢’を繰り返すうちに、そのとき感じた「これが欲しい!」という強い衝動も数時間、数日、数週間経てばビックリするくらい綺麗に自分の中から消え失せていることを体感して、刹那な思いにリスクを冒すことがアンバランスに感じるようになった。要は、ここで必殺’ワガママおねだりモード’を使うのは「もったいない」と感じて色々諦められるようになったのだ。必殺技はここぞという時にとっておこう、と。かなり打算的な子どもである。笑)
そうして大人になったわたしだけど、何でもいい、どうでもいい、と投げやりなわけではない。色々な場面で、自他ともに認めるこだわり派である。
こだわりというか、自分なりの納得ラインみたいなものを持っていて「何となく選ぶ」ということをしないから決めたことの理由が説明できる。住んでいる家、着ている服、今日のご飯、大好きな友達の良いところ、自分の仕事ややりがい、生き方や考え方について、経緯や思いがいつでも語れる。わたしにとっては自然なことだけど、世の中にはそういう人ばかりではないらしいので、こだわりあるね、と言われることが多い。
そう生きながらも、柔軟にそのラインを時には投げ出せるスキルを幼少期の経験から手に入れた。それは他の誰でもない自分のためで、その方が生きやすいことを知ったからだ。
「それはもはや生きているけど自分としては死んでいる」と思えるほど嫌なこと以外は、投げ出せる。例えばどうしようもない外的要因でヘアスタイルを丸坊主にすることになっても、大丈夫。だってそんなことでわたしの心身は死なないから。それにまだ産まれて以来やったことがない経験なので、むしろワクワクすらする。そんな機会をくれてありがとうだ。「髪の毛は程々にあってほしい」という自分のこだわりは、全然すぐ手放せる。そんな姿を見て誰かに病気だと勘違いされたり、男性と間違われたり、美しくないと言われても全く気にならない。
余談だが、逆にどんなことが譲れないかというと、まず「夜に働くこと」がどうしても出来ない。もちろん身体の機能的に出来ないわけではないし、20代半ばまではやっていた。けれど度々’わたし何のために生きてるんだっけ?’と思い心が病んでいたし、昼夜が逆転するような生活に全く幸せを感じないので、これは自分が死んじゃうと思ってやめた。強い意志を持って、やらないことの一つである。
所有欲
また、わたしは何にも極めない人なので収集欲がない。付随して所有欲もない。
人々がなぜ何かをコレクションしたがるのかがわたしには理解できない。(※そういう人達への批判ではない。)同じ用途のものをたくさん所有することにわたしは価値を見出せないので、高級腕時計やレアなポケモンカード、某コーヒーショップの限定タンブラーや夢の国のマスコットキーホルダーなどを集めて手元に置いておく幸せがよく分からない。更には、人々は時たまその欲しいものを手に入れるために途轍もない努力をするが、それにもビックリである。夜通しテントを張って道に野宿したり、何かに高額課金したりする、その必死さは凄い。
その過程のどこに幸福を感じているのか、いつかインタビューしてみたいなと真剣に思っている。自分には出来ないことを高い熱量でやっている人のことは素直にすごいと感じている。(なりたいわけじゃないけど、かなり気になる存在である。)
そんなわたしも、実はかつてモノを手放せず不要なたくさんのモノ達に囲まれて生活していたのだが、なぜそれらにサヨナラを告げ考え方を変えられたかというと、一つの本に出会ったからである。
佐々木典士さんの『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』
この本の中に感銘を受けた言葉や逸話はたくさんあるのやけど、所有欲の話でいうと「博物館を建てる予定のないコレクションは捨てる」というものがある。これがわたしにはクリティカルヒットな考え方だった。詳しくはぜひ本を読んでもらった方が面白いので割愛するが、自分が集められるほどのモノは何処かの誰かも持っているから大して貴重ではないし、もし貴重な場合でもそれなりのケアをしてきちんと保管保存していく知識や経済力はわたしにはないので宝の持ち腐れである。ならば、それはもっと適した方にお任せしたいし、わたしが持っていなくても大丈夫だと思えた。
この本を読んでからミニマリズムを大切に生活していて、実際に自分の所有物が減ると頭の中がシンプルになっていく感覚を体験しているので、もうその生きやすさの虜である。まさにメロメロ。
そんなわけで、わたしは何かを買い集めることをしない。そこにわたしの幸せはないので。「これが欲しい!」という衝動だけで買い物をすることもない。今やどこでも何でも手に入るので、その時それを買うことを見逃して後でやっぱりどうしても欲しい!となってもほとんどの場合が何とかなるし、もしならなかったとしても「そういう運命だったね」と諦められる。(ここでも執着心のなさを発揮する。)
あともう一つ、わたしのミニマリズムへの信仰心を確固たるものにしたエピソードがある。
一昨年、一緒に暮らしていた祖母を亡くした時のことだ。重たい持病があったわけではないが、年齢的な身体の衰えと体調不良がたまたま重なり、急なお別れとなってしまった。昨日まで居た人が居ない家には、たくさんのモノが残った。そりゃそうだ。まだまだ日々を暮らしていくつもりだったので、そのために必要なものがあれもこれもある。その中に、わたしがあげたシューズケースがあった。祖母がリハビリに通うときに使っていたシューズケースで、まだプレゼントしてから半年くらいだった。あげた時はガシガシに使い古いしてもらうつもりだったのに予想に反してかなり綺麗なそれだけが早々に手元へ帰ってきたのをみて、「ああ、人って本当にモノを持って死ねないんだなあ」と痛感した。
それからは前よりも一層、今必要なものだけを選んで、そうじゃないモノは手放せるようになったし、購入にも慎重になれた。これ持って死ねるわけじゃない、使う人がいてこそのモノの価値、じゃあちゃんと存分に使ってあげられるモノだけを手元におこう、そういうマインド。
競争心
わたしは運動はやや苦手(でも好き)、勉強は普通、とまあ学生時代に競わされるどちらのジャンルでも勝つという経験をほとんどしていないので、その気持ちよさを知らない。だからいつも負けっぱなしで競争心が育たなかったのだと思っていたのやけど、どうやらそうでもないようだと最近気がついた。
わたしはそもそも、人と自分を比べることが嫌いである。そこに幸せを一ミリも感じない。他者とわたしは全くの別物であると常々思っていて、それを比べることはナンセンスだ。ナスと白菜をどちらが優秀か比べているようなもので、そんなの見る角度によって違うし、何をもって優劣をつけるのか自体に明確な正解がない。
年齢や性別、体格や性格、生まれ育った環境など違うことしかない別の存在と、何を競う必要があるのか。たとえそこで、わたしの方がすごい!と評価されても別に嬉しくない。わたしはいつも、過去の自分としか比べないことにしている。
競争心と併せてわたしにないのが、負けず嫌いという闘争心。他人に対して負けたくないと思うことがないので、それが頑張る糧になることもないし、何なら勝負事にはいつも負けたい。相手はわたしよりも勝ちたいと思っているだろうから、わたしは喜んで負けてその願いを叶えてあげたい。わたしが負けて失うものは何もないので、いつでも率先して負け組になれる。プライドはない。わたしは何かのプロでもないし、そんなものないほうが生きやすいと思っている。一人の人間としての尊厳を保てているならば、それでいい。
他人目線は気にしない
幼い頃はもっと周りの目を気にしていた。それは環境的に「気にしないといけない」と思わされていたからな気がする。学校へ行けばずっと何かで競わされるし、制服を着たり団体行動をしたり、みんなと同じが大切だと言わんばかりの毎日なので、そこから飛び出さないように足並み揃えようとして、偏った考え方が刷り込まれても仕方ない。もちろんそのおかげで協調性が身についたし、一定のルールが安全を作り出し自分を守ってくれることも学べた。悪いことだけではない。
と分かりつつも、だんだん成長し色々なことを経験するうちに、これって気にしないといけないことなのか?と疑問を持つようになっていた。
昔から変わってるね、と言われる機会が多かったわたしは、いつもそれに対して少しの違和感があった。平均と違う感覚を持っているのでそこを変わっているね、少数派だね、と言われても、そうですねとしか言えない。それはただの事実確認でしかなく、だから?何だというんでしょうか?と不思議だった。(当時はこんな明瞭に自分の気持ちを言葉にできなくてただモヤモヤしていただけ。変わっていると言われるのが嫌だった。放っておいてほしかった。)
たとえばたまに「前髪切ったんだね」と言ってくれる人がいるが、その度にいつも思う、なんだその事実確認は!笑
それが良いなら似合ってるね!まで言ってほしいし(褒めて欲しいからじゃなくて言葉の真意がわかるから)、変ならいちいち話題にしなくてもいい。他人が変だと言おうがわたしが納得できているならば正解である。わたしの前髪はわたしのものだ。
その事実に気付いているよというアピール? しかしわたしは誰かに気付いて欲しくて前髪を切るかまってちゃんではない。自分でより自分を好きになるために、もしくは単純に生活しやすくするために前髪を切っただけだ。
つまり、本当にわたしは他人の意見が気にならない。心無いことを言われればもちろん反射的に傷つくことはある。でもすぐに思い直す。人様に迷惑をかけてないのであれば、他者の意見は関係ない。わたし自身がどう感じるか、考えるかだと。
だって他人はどこまでいっても他人なので、わたしの人生に責任を取ってくれるわけでもない。そんな人の言葉よりも、自分の気持ちの方が大切である。
そんなわけで
わたしには、執着心、競争心、所有欲がほぼなく、他人目線を気にすることもない、のである。
わたしは長年やり込んでいるポケモンのデータを明日全部失ったとしても「まあいっか、しょうがない、死にはしない」と思えるし(もちろん一旦はかなりショック受けるけど)、何ならまた1からやる機会をくれてありがとうだし。
そんな大好きでやり込んでるのに図鑑を完成させたことはないし、所有物が増えてしまうのが嫌だという理由で流行りのポケモンカードには手を出さない。それでも胸を張ってポケモンが好きだと言える。それはわたしの自由である。
そんなの本物のファンじゃないと言われても気にしない。それはただのその人の意見で、事実ではないから。
アンミカさんも言っていた、「死ぬところがゴールなら、生きてるうちは全部、中途半端。」わたしもそう思う。
何にも完璧でなくていい。それでも自分という存在は、少なくとも自分にとっては素晴らしいものなんだ。そういられるように、自分にとって必要のない思い込みは早めに手離した方が心から楽に生きていける。
わたしには、何にも極めない、と決めていることがとても楽だ。