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【エッセイ】バレンタインデー

かれこれ数十年前のこと。私が初めて「エッセイ」を書いたのは中学校の国語の授業内でのことだった。

その時、書いた内容はバレンタインデーにまつわるもので、「自分にご褒美チョコをあげる」というエッセイだった。

ご褒美チョコの文化が、まだそんなに日本で定着していなかった時代に、自分でお金を稼ぐことも知らない中学生が、今思えば、ちょっと痛いませた中学生だったな、と思う。

ちなみに、エッセイ内容は半分ほんとで半分ウソの内容だった。
ウソというのは、私は別に自分にチョコを買うのを「ご褒美」とは思っていなかったからだった。
その時は、ただ単に、とにかく、面白いエッセイが書いてみたかった笑

あれから、数十年たった今、再びバレンタタインのエッセイをnoteで書いてることに不思議さを感じる。

大人になった今も私は自分に「ご褒美チョコ」を買ったりはしない。
(ご褒美チョコ文化がある方、不快に思ったらごめんなさい)


なぜか?もちろん、美味しそうだからと思ってチョコを買ったりはする。
時にはちょっとだけ奮発して高いチョコを自分に買うこともたまにはある。


でも、私は自分に「ご褒美」をあげたりしない。
贈り物をしないというわけではなく、私は「ご褒美」という言葉を使うことに違和感があるからだ。

なんで、私は「ご褒美」って言葉にざわつきを感じるんだろう?
これは長年の疑問だった。

でも、ようやくわかった!!

そうか、「ご褒美」という言葉のイメージに上下関係があるからか〜。
私の中で世紀の大発見という感じだ。
ご褒美というと、私は上から目線を感じてしまう。
自分をどこか、下に見ているようなイメージだ。

例えば、人から「がんばってるからご褒美あげるよ」なんて言われたら、いりません、と思ってしまうと思う。

では、私にとってしっくりくる言葉は?

私の中で「プレゼント」という言葉だった。
プレゼントという言葉を使う時は、対等な関係性でいられるからだ。
自分にプレゼント。
ご褒美を人にあげたり、もらったりはしないけれど、プレゼントなら贈るのももらうのも嬉しい。

私の中の、長年のざわつきの正体は「自分との関係性だったのか」と納得した。

ちなみに、「ご褒美」と似たイメージで「がんばったね」というフレーズも使う場面があると思うが、こちらはざわつきを感じない。
がんばったね、はねぎらいの優しさがあると思うからだ。
やっぱりこの言葉も自分と対等でいられる気がする。

がんばったね、は自分に日頃かけて良い言葉だと思っている。
そして自分へのプレゼントは、バレンタインデーだけでなく、毎日だって自分にあげて良いと思う。

それは、お金や物で買える有形のものでなく、無形のもので構わない。

自分の時間を少しでも作れそうだったら、
「自分に時間をプレゼント」

自分の身体が少し疲れていたら、ゆっくり休むことで
「自分の体に休息をプレゼント」

自分に優しい言葉をかけてあげたくなったら、
「自分に優しさをプレゼント」

こうやって、毎日プレゼントをあげていたら、毎日がスペシャルだ!!!

ご褒美のために頑張るのではなく、毎日、毎日、じぶんにプレゼントをして優しくしてあげたい。
それはチョコよりも甘い贈り物だ。

バレンタインデーにそんなことを考えた。

ちなみに、私が昔書いたエッセイはでてきたら死ぬほど恥ずかしいだろうな、と思う。
多分、また数十年後、このエッセイを書いたことを思い出して、また恥ずかしがっていると思う。

でも、今日のこの気持ちはウソ偽りない、等身大の今の私の考えであり、私の中の発見であったことをここに残しておきたい。

そういえば、思い出したけれど、忘れてるくらい、本命チョコってもう何年も誰にもあげてない!!(えっ!悲しすぎる〜)

家に飾ってある死んだお爺ちゃんの写真の前にチョコ贈ろうと思います。
お爺ちゃん、大好きだよ♡





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