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■『もの語る法華経』第3回 菩薩として生きること

◆ 再説、不可思議

友人たちが、僕の所へやって来て言う。

「おまえの前回の不可思議に対する話は、まるでおっさんの与太話みたいで感心できない」と。

なるほど、そうだろう。僕としては、「妙とは不可思議を名づく」というのは「梵語を知らない者の誤読だ」と言う批判を、さらっと受け流したつもりだったが、そう言う中途半端な対応はかえって誤解を招くものだ。反省。

ただ天台智顗自身は、ちゃんと「不可思議」の定義を示している。

 就希有事解不思議。今解無心無念無能行無能到。不思議理理則勝事。
 希有の事に就いて不思議を解す。今解すらく、「心無く念無く、能く行くこと無く能く到ること無きは、不思議の理なり」と。理は則ち事に勝る。

摩訶止観(T46-p051c)

「不思議とは、世事では、(芥の中に須弥山を入れるとか、火から蓮華を出すとか、)一般的にあり得ないことを指すが、智顗が言うところの不可思議とは、通り一遍の思弁では理解できないし、いくら解釈を重ねても終点には至らないという理を指す。不思議の理は世事より深いのである」と。結論して述べるなら、妙とは、「いくら解釈を重ねても終点には至らない」それほどの多義だということである。

◆ 法華経全編に咲き誇る「蓮華」

もちろん、そういう意味では僕の

 妙法、サダルマを 「人の美しい振る舞い」と僕はみる。

 蓮華、プンダリカを 「人の振る舞いの美しさを喩えたもの」とみる。

という理解も一つの解釈に過ぎない。しかし、「僕はみる。」と断っているように、僕の視点を一義として示したまでで、僕は「このように解釈すべきだ」とは一言も述べていない。それどころか僕は別の重要な視点も会わせ持っている。それは因果論、縁起論に関わる視点である。

 とは言え、「人の振る舞い」に軸を置いた思索から、従来見えなかった多くの事が見えてくる。ひとつに第1回で指摘した法華経が法華経を讃歎していると言う問題。僕は法華経が讃歎している法華経というのは、経典のことでは無く、むしろ法華経を信じて行ずる菩薩の振る舞いそのものではないかと捉えている。

 例えば次のような例がある。、法華経不軽品では、不軽菩薩が但行礼拝の修行の末、臨終の場において初めて法華経を聴くことができたという説き方になっている。このことをもって不軽菩薩はそれまで法華経を知らなかったのだから、但行礼拝は法華経の修行では無いという学者もいる。しかし不軽品は、法華経とは何なのかを示す為に説かれているのであるから、この説は正しくない。

 不軽品がこのような説き方をしているのは、不軽菩薩の生前の修行と臨終に聴いた法華経とは等価・斉等だということである。不軽品は不軽菩薩のふるまいは法華経そのものであったと述べて讃歎しているのである。つまり、不軽菩薩の但行礼拝(因)=法華経の聴聞(果)ということで因果一体の理が成立している。しかも因が主体で因の中に果が包含されて説かれるのが法華経の法華経たる特徴で、これは法華経全編をを貫くテーマとなっている。

 この理を譬喩としてあらわしたのが蓮華である。このことは智顗が法華玄義{*1}で詳論しているとおりである。法華経には蓮華のことは何も説かれていないという学者は少なくないが、因果の理が蓮華だと分かれば、法華経全編にわたって蓮華が咲き誇っていることが理解できる。まさに「蓮華の経」なのである。

 ところが、いつしか「妙を不可思議というのは誤訳である」「梵語が読めない智顗たちがでたらめな読み方をしている」「日蓮も開目抄で変なことを言っている」「法華経十如是は羅什の創作である」などという言葉が一人歩きするようになって、それを丁寧に反論する人もおらず、宗門教学で護教的に学ぶ人以外では天台六大部を学ぶ人を見かけなくなったことは悲しいことである。その点、僕などフリーな立場だし、年齢的にも誰にも遠慮する必要がなくなったので、こうして語り出した次第である。

◆ タイ仏教と法華経の成仏観の違い

 話題を少し変えよう。あるタイ仏教のお坊さんが法華経について語っているのを聞いた。「法華経の何処を読んでも誰一人として成仏した人はいない。二乗作仏と言っても無量不可思議劫という遠い未来世のはなしだから、現実には誰一人成仏していないということになる」と。

 この方は立派な行体のお坊さんだから、僕など、こういう批判を聞いても別に反発は起こらない。ただ、この方は「法華経の何処を読んでも」とのべているが、きちんと読んでおられない。法華経における成仏の実例なら、方便品の終わりの方、過去仏章で「皆已に仏道を成じたり」{*2}と十の成仏の実例を挙げている。そしてより本質的な問題は、タイの上座部仏教と法華経の成仏観の違いをご存じないことのようである。

  舎利弗。汝於未来世。過無量無辺。不可思議劫。供養若干。千万億仏。奉持正法。具足菩薩。所行之道。当得作仏。
  舎利弗よ、汝は未来世に於て、無量無辺不可思議劫を過ぎて、若干の千万億の仏を供養し、正法を奉持し、菩薩の行ずる所の道を具足して、当に作仏することを得べし。

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 これは譬喩品のはじめに示される舎利弗の成仏の授記であるが、成仏に至るまでに途轍も長い修行期間が設定されている。タイの坊さんでなくとも突っ込みを入れたくなる気持ちはよく分かる。しかしその感情は成仏を目的とするところから起こっている。法華経の成仏観はというと、寿量品に「方便現涅槃」とあるように、もはや目的ではなく菩薩道を実践するための一つの方便に過ぎない。成仏は菩薩道という因に付随してくる果報に過ぎないのである。だから久遠実成の釈尊と言えども、今なお菩薩としての寿命は尽きておらず、ご自身も菩薩道を実践しているというのである。

 諸善男子。我本行菩薩道。所成寿命。今猶未尽。復倍上数。
 諸の善男子よ、我は本と菩薩の道を行じ、成ぜし所の寿命は、今猶お未だ尽きず。復た上の数に倍せり。

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 法華経は「菩薩を教える法」であり、釈尊は「菩薩のみを一貫して教化」してきたのである。法華経は人々が菩薩として生ききることを説いている。言うならば、それまでの二乗、声聞の弟子たちが間違っていたのは、彼らの自己規定、自己認識だけである。

 苦集滅道の四諦の法も、十二因縁も決して二乗のための法ではなく、普遍の道理、真理である。法華経自身も繰り返し四諦、十二因縁を説いている。これもまた因果の法であり、蓮華の花だからだ。

◆ 菩薩として生きる

 さて、このことに気がついた舎利弗尊者は、歓喜して菩薩として生きる誓願を立て、それを釈尊に認められて成仏の授記を受けたのである。

 菩薩の誓願は一般に「四弘誓願」と呼ばれ、摩訶止観に整足{*3}して説かれる。

 ①衆生無辺誓願度 全ての衆生を救いきると誓う。

 ②煩悩無辺誓願断 一切の煩悩を断つと誓う。

 ③法門無尽誓願知 仏の教えのすべてを学び取ると誓う。

 ④無上仏道誓願成 無上の悟りの獲得を誓う。

しかし、どの条目にしろ、一生や二生、千年、二千年といった単位では成就できるはずもなく、いきおい「無量無辺不可思議劫」というとてつもなく長い時間が必要となるのは自然の理である。菩薩はそんな誓願を立てたのである。ましてや女人や批判者を排除したら、この誓願は永久にかなわない。

 こうなってくると、成仏としての果はもはや、それほど意味を持たなくなる。そのような果報としての喜びは菩薩道を実践していく中における喜びの中に吸収されてしまう。果は因に吸収されているのである。だから授記の劫国名号{*4}の中で描かれる浄土は煌びやかであり、その有様は古代の人が思い描いたユートピアであろうが、今日の僕らの視点からみると陳腐なものとしか映らないのである。あのような浄土を説かれて喜ぶ人がいるのであろうか。僕にはそれは、昔見た映画『2001年宇宙の旅』{*5}のロボトミーの世界のように見えてしようがない。

 それに比べて、釈尊の浄土は決してそのようなものではない。というより従来、他仏の浄土は説かれても釈尊の浄土は説かれることはなかったが法華経寿量品において、この娑婆世界こそが釈尊の本国土として示され、以来、「娑婆即寂光」として、この娑婆世界こそが釈尊の浄土であると理解されるようになった。

 自従是来。我常在此。娑婆世界。説法教化。
 是れより来(このかた)、我は常に此の娑婆世界に在って説法教化す。

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◆ どのように乗り越えるのか

 そうなると、菩薩として飛躍してゆくためには、舎利弗の華光如来としての浄土も、女性差別{*6}を含んだような富楼那の法明如来の浄土も乗り越えられるべきものとして棄てられ、法華経から削除されるべきなのだろうか。いや、さらに言えば、浄土観そのもの、浄土という発想自体を不要の過去の遺物として捨ててしまうべきなのだろうか。

 しかし僕はそれは違うと思う。誰の中にも悪はある。仏の中にさえ悪はある。だからこそ仏は悪をコントロール、制御できるのである。僕らの中には遅れた部分、劣った部分も実に多い。しかし、それらをすべて剥ぎ取ってしまえば、たちまち僕らは人格崩壊をおこしてしまうだろう。

 法華経という経典と、僕らの身心とはよく似ている。共に歴史の集積の上に成り立っている。この両者の類似性については、いずれ回を改めて広く語りたいと思う。ただここでは、そういう歴史的なものを法華経がどう乗り越えようとしているのかについて述べたい。

 明らかに法華経は、外ではなく、自らの内にあるものを乗り越えようとしている。先に示した成仏観、浄土観もそうである。菩薩観もそうであろう。

 天台智顗はこれらを考察する視点として本門、迹門という視点を遺している。ただ、一般のこの二門の捉え方については大きな誤解があるように思われる。

 誤解のその一は、「迹」を「かげ」と読み「しゃくをはらう」というような活用をすることである。本来、「迹」は「跡」の異体字であり、「足跡・あしあと」のことである。動詞としては「ふむ」。僕らは先人の足跡をふむことによって、世間の道理を会得してゆく。同じように法華経を理解するためには先人の指南を受け、先人がつけた足跡をたどらないことには、法華経は一行だって読めない。

 しかし、そのような受け身の学習だけでは、なかなか深いところまで到達しない。疑問が山積してきて、にっちもさっちもできなくなる。そういうとき、退く人はものを考えるのを止めてしまう。進む人は七転八倒の末、ここで大きくジャンプして次のステージに向かう。「発迹顕本」とはそういう意味であろう。

 誤解の二は、この「発迹顕本」の「発」を「はらう」と読み、「迹」を排除すると解することである。しかし「発」は「おこす」である。「発心」「発射」「出発」の「発」である。そしてこの「発す」の契機は七転八倒とくだいて述べたが法華経では「動執生疑」という。自らがこだわり執着するところを、揺り動かし、そこに疑いを生じさせ、執着する山を突き崩し、新たな地平を切り開くのである。排除するのは先人の足跡ではなく、自らの内にある執着である。

 智顗は単純明快に本・迹を前半と後半に分けたが、僕などは、こだわりが多い所為か発迹顕本の格闘は何度も繰り返して、未だに止まない。

 ともあれ、法華経の内にあるものを乗り越えて行くためには丁寧に法華経を読みほどいて行く必要がある。排除するのではなく、質的に昇華させていこうというのが法華経の心なのだから。

◆ 霊山浄土

 さて、浄土観の問題に立ち返ると、法華経に至って、一見不用になったかに見える浄土観を日蓮は見事に現代に再生させているのである。

 それは「霊山浄土」である。壮年時代の日蓮はあまり浄土を語っていない。ところが晩年になると、さかんに「霊山浄土」を語るようになる。明らかにこれは門下の信徒たちが親や子や夫たちとの死別を嘆くことに対するみごとなターミナルケア{*7}となっている。

 いくら、生き死には人の常、娑婆世界は本国土といっても、親族や友人知己と死に分かれる辛さは理屈では解決できない。こういう時に、信徒たちの心のケアができなければ、仏法を説く人の師匠としての任は務まらない。

 ただ霊鷲山は娑婆世界に実在する山であり、「霊山浄土」とは法華経の説会の場である。それは法華経の世界観と一体のものとしてピタリと収まっている。法華経そのものなのである。法華経に信を立てた者が、なお壮大な菩薩の誓願に立つとはいえ、死しては法華経の中に帰って行くというこの発想は、深い安心感をかもし出している。これは浄土観の大転換というべきである。もはや陳腐になってしまったかに見えた浄土観を開いて再生させた一つの実例である。

上野殿御返事「さは候へども釈迦仏・法華経に身を入れて候ひしかば臨終目出たく候ひけり。心は父君と一所に霊山浄土に参りて、手をとり頭を合はせてこそ悦ばれ候らめ。あはれなり、あはれなり」

s1794,h1496,g1568


◆【注】

{*1} 法華玄義で蓮華について論ずるのは第七巻下釈蓮華 T33-p0771c17

{*2} 皆已成仏道 k1.432 t008c11

{*3} 四弘誓願が整足して説かれているのは T46-p139b

{*4} 劫国名号 仏が弟子に成仏の記別を授ける際に必ず明かす劫と国と名号の三つの事柄

{*5} 『2001年宇宙の旅』スタンリー・キューブリックが製作・監督した、叙事詩的SF映画。1968年。

{*6} 女人差別 法明如来の浄土では女人がいないと説かれているため、これを女性差別と捉える人は少なくない。

{*7} ターミナルケア ターミナルとは終着駅、医療の現場ではとくに終末期医療を指すが、終末期を迎えた本人だけでなく、その家族をも含めた身心のケアを大切にする必要がある。


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