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『もの語る法華経』

■ 『もの語る法華経』第1回 はじめに

◆ 古希を迎えて

 僕もとうとう古希を迎え、七十路を歩み始めた。今、身心は(年相応には)至って健康である。ただ僕の六十代は、仕事の面からも身心の面からも、のたうち回るような十年であった。僕の執筆した論考は『法華仏教研究』2014.8に投稿した「『法花取要抄』の語法と用字に関する一考察」で止まっている。じっさいこの論考は、当時手術のために入院する直前に「これが最期の文章になるかもしれない」という思いで書き上げたものであった。
 その後の闘病も一進一退して厳しく、何度も新たな論考を起こす試みをしたものの、まとめ上げるだけの体力と余裕がなかった。そういうことで、とても七十の目を見るとは思っていなかったから、僕としては、これからの十年はまさに想定外、余禄であり功徳として大いに満喫してゆきたいと思っている。

◆ 法華経の三つの智慧

 ところで現在の世の中はコロナ騒ぎで以前とはすっかり様相が変わってしまったようにみえる。とはいうものの新聞テレビなどのマスコミが信頼できないのは昔からであるし、YouTubeなどの新しいネット社会もひどい分断の様相を呈している。右も左も「対話、対話」と叫びながら、一向に相手の言葉を聞こうとしているようには見えない。相手の言葉をさえぎり、決めつけの言葉を投げつけている。はては身内同士でさえ足の引っ張り合いをしている。そのようにしか見えない。老人も若者も昔と少しも変わっていない。そんな世界で一喜一憂しているような時間は僕にはもはや残っていない。

 本来、こういう時にこそ力を発揮すべきなのが仏教であり、法華経であり、それを学ぶ人たちであってよいはずなのだが、悲しいことに、世間と同様、それ以上の争いと憎悪がそこにみえている。分裂・分断の連鎖は自らのうちにある。思えば今、世界の中で最も荒廃の極にあり、憎悪と暴力が支配していると見られるのがアフガニスタンであるが、じつはこの地こそが、法華経の故郷の一つであり、かつて大月氏が栄えた所である。
 「なぜ、こうなのか!」
 「なぜ、こうなってしまったのか!」
 「法華経って、何なんだよ!」

 もちろん、僕はそれを誰かの所為にするつもりはない。法華経に時代を開く力が無いとも思わない。だけどこういう憎悪の連鎖を僕らは僕らの内から、まず断ち切っていかねばならないのだと思う。そうでなければ法華経は読めない。いや、読んだことにはならないと思う。もちろん、僕は自分の無知・無能さ・非力さは嫌というほど実感してきた。
 しかし、少なくとも不軽菩薩{*1}のように、僕は「石つぶて」を受ける側には立てるはずだし、それが本望で、間違っても見解の違う相手に対して顰蹙し言葉の「石つぶて」を投げつけるような側には絶対に立ちたくないと思う。

 法華経には三つの智慧{*2}がある。「開く義」「円満の義」「蘇生の義」である。この三つの智慧こそ、今の時代に一番必要だと思うのだが、今この智慧が世間に開いているだろうか、どうしたらこの智慧を引き出せるのか。閉塞した時代を開き、尖った人々の心を包容し、疲れた隣人を蘇生させる智慧、それこそが今一番求められているのではないかと思う。
 齡七十になったのを機に僕は今一度、新たな気持ちで法華経の語る声に耳を傾け、法華経の語る物語を口まねでもいいから語って見たいと思う。

◆ 法華経の物語の最初の法師

 法華経というのは経典である前に、ひとりの法師(語り手)によって語り出された物語であったと僕は理解している。それが多くの人の共感を呼び起こし、共感のうちに語り継がれ、語り継がれて再編集され増幅されて出来たのが現在僕らの前にある法華経という経典、テキストなのだと思われる。

 法華経の成立事情については多くの学者によって多様な学説{*3}が発表されているが、実はこのような物語としての視点を最初に提示されたのは渡辺照宏博士であった。ただ僕が初めて博士の著作を読んだのは、もう五十年も前のことになるが『日本の仏教』岩波新書1958であった。当時、法華経を学び始めたばかりの頃であったが、そこに述べられていたことたるや、まさに晴天の霹靂であった。
 なぜならば、博士はそこで法華経と法華経の信仰者に対して罵倒の限りを尽くしていたからである。もちろん当時の僕は激しい憤りを覚えたが、相手は斯界の権威であってみれば反論のすべもなかった。(後に勝呂信靜博士、伊藤瑞叡博士によって丁寧に反論されている。)
 ただ僕は渡辺博士の著書を反発はしても排除はせず、むしろ積極的に博士の著書{*4}や論文を求めて読むようにしてきた。これは僕にとって物事の客観性を培う良い訓練となったと感謝している。結果として総否定ではなく、多くの考え方を受容してきた。僕にとっての良き師、良き書とは、ものを考えさせてくれる人と書である。その立ち位置が何処にあるかは関係がない。

 その後、博士自身も博士の法華経研究の進展とともに、法華経に対する態度を改められ、法華経排除から受容へと変わって行かれた。その後に書かれた『法華経物語』大法輪閣1977は僕の愛読書となってきた。もちろん僕とはものの見方はずいぶん違うのだが、このたび僕が『もの語る法華経』というタイトルでここに書き始めた淵源は、博士の『法華経物語』にあるのは事実である。若き日、いつか僕も僕の理解と問題意識の上で、このような本を書いてみたいと秘かに思ったものであった。
 その場合、タイトルも同じ『法華経物語』としたいと思っていたが、いざ書き始めるとなると、やはり博士に対して憚られる。それではと『物語法華経』とすることも考えたが、すでに勝呂信靜博士によって『ものがたり法華経』山喜房仏書林1996が出されているのでこれも憚られる。(この書は法華経の解説や論考ではなく、羅什訳法華経を現代語の易しい文体で抄訳したものであるが、一流の法華経学者が上梓したものだけに平易に流れず、大切な所を逃していないので、法華経を通読したいと考えておられる読者諸氏にお勧めしたい法華経テキストである。)
 そんなわけで『もの語る法華経』というタイトルに落着したのである。これは法師によって物語られた法華経ではあるが、同時に法華経は読者に対して語りはじめる主体者ともなっているという法華経の構造を意味している。この法華経の構造は「法華経の中に法華経が語られている」として、批判者から、しばしば揶揄されるもととなっている。しかし、この入れ子のような構造を見落としてしまうと法華経の理解が甚だ困難になってしまう。このことはまた追って考察したい。

 ところで、法華経の成立の事情がどのようなものであれ、必ず最初に語り出した法師がいたはずであろう。そしてその法師の志こそ、今日伝わる法華経の魂部分、智慧の根幹であると僕は考える。僕は何よりもその志に触れたいと思う。
 しかし、この法華経の物語の最初の法師(語り手)が、どういう名の、どういう人であるかについては今では皆目分からない。分からないながらも、その面影は序品の中にうかがえるし、その他の品からも推測することができる。また法華経全体からも最初の法師の面影がくっきりと浮かんでくるようにも思われる。これも回を追ってその面影を考察してゆこう。

◆語り手と聞き手の間にある壁

 さて、最初の法師がいざ語り出そうとしたとき、何の逡巡も無かったであろうか。法華経の文面を諸訳で比較しながら追う限り、必ずしもすらすらと出てきた言葉ばかりとは言えないように思われる。むしろ苦吟が重ねられてきたように思われる。またその苦吟は法師一代では終わらず、何世代にも渡って推敲し言葉をひねり出す歴史もあったのではなかろうか。
 というのも、語りかける大衆はあまりにも多様であり、同じ言葉が各人に同様に受け取られるとは限らないからである。時に正反対に受け取られることもある。近代の小説などのフィクションならば、その解釈は読者に丸投げして自由に読んでもらっても差し障りはないが、仏の悟りの世界を説く経典ではそうもいかない。解釈は厳粛である。
 そうであれば、ときにストレートな表現を避けてあえて韜晦した表現にする必要もあったと思われる。じっさい法華経にはそういう韜晦が少なくない。
 法華経方便品には釈尊が初説法に臨む前に、人々に釈尊が悟った内容を話すべきか、止めるべきかを逡巡する場面があり、それに対して梵天たちが釈尊に説法をうながす物語が載せられている。この話は元来、初期仏典の「聖求経」{*5}に見えるものである。

 〝困苦してわたくしがさとったものを、
 いま、説き明かすべきではない。
 貪りと怒りに従う者たちに、
 この理法はよくさとることができない。
 世間の流れに逆らい、微妙・甚深にして見がたく、
 かつ微細なる理法を、
 貪りにふけり無知の塊に覆われた人びとは
 見ることができない〟
 修行者たちよ、このようにして、わたくしが思いめぐらしていると、心はしだいに熱意を欠き、説法への意力を失った。

 この話が法華経に再録されたのは、それが法師自身の逡巡と重なる部分があったことも一因ではなかったかと思われる。ここで最初の法師がぶち当たったと思われるのは、釈尊の場合と少し違って、いかなる言葉で、いかなる物語で衆生の心を開くかという「大きな壁」であったろう。ともあれ法師はその壁を打ち破って法華経という経典を後世に残したのである。
 しかし、語り残された物語を僕らが聞こうとするとき、僕らの前に僕ら自身の先入観が築き上げた大きな壁が立ちはだかってくることになる。

 この壁について養老孟司博士が『バカの壁』新潮新書2003で指摘していることが示唆に富んでいる。一読をお勧めしたい書である。内容を要約すると、①「分かっていると思い込むこわさ」②「人間は変わらないと思う大前提」③「ものごとを一元的に捉えようとする発想」この三つが認識の大きな壁になっているとする。それぞれが法華経と大きく共鳴する内容となっていると僕は思う。3つめの「一元論」の問題はあまりに哲学的であるため、一般に「答えが一つだと思い込むこと」として砕いて語られることもあるようだ。しかし法華経の問題に関する限り、一元論の問題はきちんと向き合うべきだと思う。例えば「久遠実成」{*6}を絶対神的な久遠本仏として理解する人も少なくないからである。その場合、仏教の縁起説とどう整合性をとるのか。いま、あえて結論を急がず、寿量品を扱う回で語ることにしよう。①「分かっていると思い込むこわさ」については方便品の五千上慢についての命題である。②「人間は変わらないと思う大前提」は譬喩品から涌出品の動執生疑までの命題でもある。

◆幼児を看護する母親の智慧

 十二月になるとあちこちから聞こえてくるベートーベンの合唱の曲、シラーの歓喜の歌の冒頭で歌い出されるベートーベン自身の言葉がある。「こんなのではない。こんなのではない」と{*7}。そのように一つの真理が伝わるためには、こころが通うためには、いくつもの言葉のすりあわせが必要なのではなかったか。その言葉のすりあわせに物語が生まれ、経典ができあがってきた。
 僕がこのような考えに至ったのは、闘病の苦痛の中で医師との意思疎通、対話がうまくできなかったという情けない体験からである。自分の状況を医師に伝えようとしても適当な言葉が出てこない。何とか言葉をひねり出しても、医師から「そんなことは関係ないです」「そんなことより…」とはじき返されてしまった時の情けなさ、悔しさ、「このヤブ医者変えられんのか」と、投薬拒否で応じたりと、今思い返せば笑い話ではあるが、当時ののたうち回るような苦しさの中では、じつに辛いことであった。
 おとなの僕でさえこうであるから、まだ言葉も十分にしゃべれぬ幼児であれば泣きわめくしか方法があるまい…。とこのように考えていたとき、思い出したのが、以前にYouTubeの『ゆる言語ラジオ』{*8}で聴いたある母親の対応である。泣き叫ぶ幼児に対してその母親は「いたいのね、どういたいの、じんじんするの…」というように幼児に言葉を与えていく。こうして幼児は自分の痛みを伝える言葉が見つかって安心し落ち着きだすのである。「じんじんする」というオノマトペはどういう意味であるとか、そんなことは問題ではない、それで十分通じているのである。この賢明な母親のようにその場その場に適切な言葉を紡ぎ出してきたのが経典の歴史ではなかったか。
 そして今、求められているのが、この母親のような智慧者である。それに対して「このヤブ医者め」「このバカ親父め」とぶつかっているだけではどうにも開けまい。赤面の至りである。

◆ 病と物語の形成

 「病によりて道心はをこり候か」{*9}
 日蓮の時代も疫病が流行し多くの人が若くして亡くなっていた。また戦乱による傷跡もあちこちに見えていた。そういう時代だからこそ人々は心を癒やす語りの世界に救いを求めていた。日蓮もそういう要請に応じた語り人の一人であったと思われる。
 そういう語り人の視点で日蓮の周辺を見ていると決して日蓮一人が時代に突出していたというより、日蓮が実際に交流していた人々の中に平家の物語を集成し編纂していた語り人が多くいたと思われるのである。なぜそういうことが言えるかというと、まず平家物語が集成されていた時代と同時代であると言うことが挙げられ、さらに日蓮の文章に残されている話題と平家物語のそれと共通するものが少なくないからである。しかもその言葉はどちらかがどちらかを引用参照したものではなく、同一の原型に双方がそれぞれに触れているという事のようである。{*10}
 
 人は病に冒された時、傷ついたとき、その痛みを語ろうとしだす。その痛みを的確に語ろうとするが、平板な言葉だけでは伝わらないことに気づき、ある種の創作を余儀なくされる。リアリティの問題が関係するからである。だから必然的に物語が発生する。苦からの脱却を求めた人々は物語を語り出した。それが膨大な大乗経典を生み出した。その物語の志向するところを集約して完成したのが法華経である。
 そしてその法華経の説き手、語り手は説法者、説教者、法師と呼ばれた。法華経の求める信仰者の人間像が法師である。ゆえに日蓮法師は一等の物語の語り手であった。

 先にも触れたが法華経の物語は入れ子になっている。一分を極めても全体の声が聞こえるし、多くの物語を聞いても一つの物語に帰って行く。法華経が物語る物語を僕が聞き、僕が聞いた物語を縁のある人々に僕も物語っていきたい。

次回『もの語る法華経』は、法華経の題号、タイトルについて語ってゆく。乞うご期待。 2021年11月23日


【注】

{*1}不軽菩薩 法華経不軽品にみえる菩薩。会う人ごとに声をかけ礼拝することを行としていた菩薩。高慢な人々からは無知な男と軽んじられ石つぶてを投げられていたが止むことなく、その菩薩の誓願ゆえに最後には迫害を加えた人々が救われるという話。
{*2}三つの智慧 日蓮「法華経題目抄」昭和定本396,平成新編356,御書全集943以下にそれぞれ示されている。「妙の三義」と称される。
{*3}多様な学説 諸氏の見解は伊藤瑞叡上人の『法華経成立論史』平楽寺書店2007に詳しい。渡辺照宏博士に対する論評もここに載せられている。
{*4}渡辺照宏博士の著書 当時広く読まれていたのは同じ岩波新書に収録されていた『お経の話』1967、『仏教第二版』1974、そして先述の『日本の仏教』1958の三部作であった。
{*5}「聖求経」 人類の知的遺産3「ゴータマ・ブッダ」早島鏡正著 講談社刊 引用箇所はp209
{*6}「久遠実成」 寿量品で説かれる。釈尊は今世で悟りを開いたのではなく実際は久遠の昔から悟りを開いていたことが明かされる。このテーマは法華経を信ずる人だけでなく、例えばクリスチャンなども注目していることである。
{*7}「こんなのではない」 正確には、冒頭にバリトン歌手が独唱で歌う“おお友よ、このような旋律ではない!/もっと心地よいものを歌おうではないか/もっと喜びに満ち溢れるものを”(以上3行はベートーヴェン作詞)である。出典参照は『ウィキペディア』歓喜の歌による。
{*8}YouTubeの『ゆる言語ラジオ』 https://www.youtube.com/channel/UCmpkIzF3xFzhPez7gXOyhVg いつ、何回目の放送であったかは失念した。
{*9}「病によりて道心はをこり候か」 日蓮「妙心尼御前御返事」(昭和定本1103,平成新編900,御書全集1479)
{*10}同一の原型に双方がそれぞれに触れている。 日蓮の文章と平家物語の文章の関係を深く研究したものとして今成元昭『平家物語流伝考』風間書房1971がある。


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