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メモ「ジェネレーション・レフト宣言」斎藤幸平さん著 を読む

岩波の「世界」はめったに手にすることはないのだが、今回は、若手の論客、斎藤幸平さんの「ジェネレーション・レフト宣言」と酒井隆史さんのグレーバー追悼「そこで開かれた諸可能性は、二度と閉じられることはない」という二つのエッセイにひかれて読んでみた。そこで、あらためて、感じたのは「ポスト資本主義」を若い世代(私の子ども世代)は感覚的に求めていることと、これまでの、議会民主制への限界から、議会外への「運動」である、ダイレクトデモクラシーに近いものを求めていることを改めて共感をもって読ませていただいた。斎藤さんの言葉をかりれば、日本に独特なロスジェネ世代よりもはるかに、古い(笑)新人類世代の私がおおいに共感したわけだ。ただ、ポスト資本主義が、はたして「マルクス派共産主義」になるかどうかは、まったく別のことだろう。斎藤さんが指摘するように、ミレニアル、Z世代は、ソビエト連邦崩壊も、東西冷戦もリアルには知らない。そのひとたちが、これまで、旧世代がぬくぬくと生きてきた「経済成長」というドグマを超えて、どんな「ポスト資本主義」のイメージ運動をおこしてくるのか、とても楽しみである。追記すると、斎藤さんの「ポピュリズム」に関する批評は、私もまったく同感である。ただ、日本の左派ポピュリズムが「経済還元論」というのはあたっていないと思うが。

追記:たまたま、ラジオJWAVEのジャムザワールドの火曜日(2020年12月15日)、青木理さんのナビのゲストは、斎藤さんだった。実に面白い対談で、「脱資本主義元年」というネーミングは、賛成である。私的には、もう1970年代からずっと「脱資本主義」したいと考えてきて、この年齢になっているが、まさに、このコロナ禍こそ、資本主義の終わりの始まりだ。課題は、ポスト資本主義の豊かなイメージをみんなでつくっていくことだろう。もう、国家主義的牢獄社会主義国家は誰も望まないだろう。斎藤さんが「脱成長コミュニズム」というのなら、私は「脱成長分配主義」で考えてみよう。どちらにしても、市場をどうするか?とか、コモンズの管理をどうするか?とか、そのときの自治体や国家のシステムはどうなるのか?とか、生産手段のみの共有化でうまくいくのか、万人の私有財産権が必要ではないか?とか、いろんな、ことが、頭をかけめぐり、それが、次の政治のありかたまでつながっていく。いずれにしても、斎藤さんたちの若い世代にも大いに学びながら、自分の思考を深めていきたい。

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