ドライフラワー
今日、私は決別する。弱い自分とはお別れする。今まで私を繋ぎ止めていたもの、全部捨てる。ぜんぶ、ぜんぶ。
「ゆか姉、あたし先帰るよ?明日もまた片付けくるからさ。」
「いいよ。私もうちょっとやっていくから。旦那さんによろしくね。」
「無理して身体壊さないでね。ま、ゆか姉に限ってそんなことないか。」
「いいから早く帰りなよ。」
「じゃあね。また明日!」
「はい、また明日。」
「あ、そうだ。」
「なに?」
「ゆか姉、早く彼氏作んなよ。」
「こら!」
「じゃね!」
バタンと閉まる玄関の扉。何回もみた風景だな、と懐かしくなる。
ひなたは昔からマイペースだ。やりたい事があればやるし、やりたくなかったらやらない。帰りたくなったら帰るし、眠くなったら寝る。
彼女の性格に惹かれたのか、周りに人がよく集まっていた。みんなに好かれて、みんなに優しい。そんな彼女は2年前にさも当然のようにスルッと結婚した。そんな生き方もあるようだ。
私は、そんな性格を見越してか、ひなたが産まれてからは、しっかりしなければと自然に思った。
妹が帰った分、もう少し片付けようと思っているとふと、襖の奥にしまわれてる段ボールが目に入る。中を開けると古びた写真帳が出てきた。
「こうやって、形にしてたら残るでしょ。思い出って消えてくものだから。繋いでいく必要があるのよ。」
母は写真が好きだった。近所の写真屋さんに持っていっては現像して、ノートに貼っていくのが唯一の趣味といっていい。
「携帯で撮って残しておいたらいいじゃない。どうせ見返すわけじゃないし。」
「そうねぇ。でもこうやって、ひとページひとページに写真を貼っていくうちに、心の中でアルバムが作られてる気がするのよ。あぁ、こんな事もあったなぁ、あんな事あったなぁって。まるで思い出に手触りがある感覚よ。」
彼女は不器用な生き方しか出来なかった。父が亡くなった後も再婚の機会が無かったわけではない。けれど
「さとるさんに悪いから。」
と言って毎回断っていた。身体が弱いにも関わらず、朝から晩までパートで働いて、女手一つで私たちを育ててくれた。
写真帳を開くと、私たちの初めての事がたくさん載っていた。初めての遠足、初めての運動会、入学式、発表会。
より古びた箱を開けて行くと、私たちが産まれた時の写真が出てきた。これはひなたが産まれた時だ。小さな手が私の手をしっかりと握ってる。
ページをめくると、男性が小さな赤ん坊を抱えている写真が出てきた。父だ。
慣れない手つきで赤ん坊を抱える父を笑いながら見守る母。
この時、どんな気持ちだったんだろう。
写真帳はそのページが一番はじめだった。しまおうとすると、ノートの隙間から数枚写真がこぼれ落ちた。若かりし時の父と母だった
「さとるさんはあまり写真が好きじゃなかったからねぇ。その分あなたたちを撮らないと。」
母によると私と父は似た性格らしい。さっぱりしていて、決断が早くて、あとぐされがなくて。
父が亡くなった時、私は冷静だった。亡くなってしまったものは仕方がない。私たちは生きて行くしかないのだ。
反対に母は激しく動揺していた。何も手につかなかった。そんな母を見て、しっかりしなければいけない、と強く思った。同時に不器用な人だな、とも思った。
高校に入ると、バイトを始めた。家が貧乏で、勉強する暇もないと思われるのが嫌だったから深夜まで机に向き合った。
お前ならいい大学に行けると教師に言われたが、高校卒業と共に就職した。
高卒でも採用する会社だったから雑務ばかりだった。
「ゆかりさんってロボットみたいだよね。」
「感情、ある??」
あなた達と違って私は役に立たないと社会にいられない。私の家族は、私がしっかりしないと生きていけない。
朝から晩まで働いた。転職の機会があれば全て食らい付いた。
"ゆかりは一人でできるやつだ"
そう言われる事が、唯一の私のお守りだった。
ひたすらもがいて、流れ着いたのが今の会社だ。中小企業にしては売り上げも高く、急成長中。今が勝負時と、会社の命運をかけたプロジェクトリーダーとして私に白羽の矢が立った。
「期待しているよ。」
「ゆかりくんなら安心して任せられるよ。」
「ゆかりさん、ついていきます!」
やっと社会に受け入れられた気がした。私は存在していいんだ、と感じられた。24時間プロジェクトの事ばかりを考え、下げられる頭は全て下げた。これで、みんなを支えられる。
「先輩、よろしくお願いします。」
こたろうくんは今年うちの会社に入ったばかりだ。そのくせにひょうひょうとしていて、人の心を見透かしたかのように話しかけてくる。
「先輩、手伝いますよ?」
「ありがと。私のことはいいから自分の仕事をしなさい。」
大きなプロジェクトに携わって成長してほしい、という社長の意向で、何人かの新人が私の元についた。こたろうくんもその一人だ。
正直、仕事のいろはもわからない人間が入っても邪魔になるだけ。ましてや、会社の今後を決める一世一代の勝負なのだ。絶対に負けられない。会社にとっても、私にとっても。必要だとされる人員が入るほど、私の仕事は指数関数的に増えていった。
「ゆか姉、実は私結婚するんだ。この日に式をあげるんだけど、来られるかな?」
「おめでとう!ごめん、その日は無理なんだ。」
一人分、肩の荷が降りた気がした。幸せになれよ。そう心の中でつぶやいた。
「ゆか姉、おかあさんの具合が悪いらしいの。時々でいいから顔出せない?」
「ごめん、今離れられなくて。電話しとくね。」
「ゆか姉、おかあさん、すごい重い病気らしい。あたしよくわかんないんだけど、治療費もばかにならないらしい。」
「そっか。お金の事は私に任せて。ひなた、病院行ってあげられる?」
私がしっかりしないと。私が支えないと。
「先輩、それはやりすぎっすよ。」
「いいから前に進めて。」
私がもっと頑張らないと。
「ゆか姉さん、おかあさん、もう長くないかも。」
「新しい治療法、試してみてもいいかも。」
私がなんとかしないと。
「先輩、もう無理です!誰もついてきてませんよ!」
うるさい。
「ゆか姉、せめて顔だけでも見せにきて。」
どうして。
「もっと周りを頼って下さい!あなた一人でプロジェクトやってるわけじゃないんですよ!」
うるさい。
うるさい。
「うるさい!」
あたりはシンとしていた。オフィスが凍りついたように誰も動かない。換気扇の音と外の蝉の鳴き声だけが部屋で聞こえている。
携帯の音が鳴った。
「ゆか姉、忙しいところごめんね。今朝、おかあさんが亡くなりました。お通夜とお葬式はこの日です。都合がついたら出席して下さい。私たちで親族は取りまとめます。」
一週間休みが欲しいとだけ伝え、逃げるようにオフィスから立ち去った。
何のために私は頑張ってきたんだろう。私は何のために生きているんだろう。
私は存在していいのかな。
何も考えず、会社の人間とは誰とも連絡を取らず、母が最後に過ごした部屋で遺品整理をしている。
唯一の社会との接点は妹と喋る時間と、こたろうくんから「大丈夫っすか?元気っすか?」と連絡がくるくらいだ。
母が亡くなって、動揺してる自分を見て、不器用な人だなって感じた。明らかに私は、弱っていく母に動揺していた。
写真帳を片付けて、戸棚を整理していると、通知が来た。またこたろうか、と思って画面を見ると妹からだった。
「忘れてた。リビングにある戸棚の一番上の引き出しにおかあさんからのプレゼントがあるよ。」
手を伸ばして引き出しをあけると、隅の方に小箱がちょこんと置いてある。取り出して開けるとドライフラワーが入った小瓶があった。
そういえば母にはもう一つ趣味があった。花を貰うたびに逆さに吊るして乾かしていた。
「ドライフラワーにはねぇ、命を繋ぐって意味があるのよ。」
「長持ちするだけでしょ?どうせ枯れるじゃん。」
「気持ちの問題よ。」
不器用な人だなと感じていた。何かにつけて気持ちと言う。そんなに気持ちの事を考えて疲れなかったのだろうか。
よく見ると小箱の底に封筒が入っている。宛名には"ゆかりへ"と書いている。
身体が緊張でこわばるのを感じる。心臓の鼓動が脳まで伝わってくる。震える手で封を開け、便箋を広げた。
"ゆかりへ
この手紙を読んでる頃には私はこの世にはいないかもしれません。
どうしても伝えたい事があるのでこの手紙を書くことにしました。だって、あなた、取り留めのない話をしたらすぐ気が散るんですもの。だから、手紙にしました。あなたの気持ちに届くと嬉しいです。
ゆかり、今思い詰めていませんか?
あなたは全部を背負いすぎてしまう子でした。
自分がなんとかしないと、自分が頑張らないと。
そう思ってしまう。
正直に言うととても助かっていたわ。ほら、私って不器用だから。ゆかりみたいに上手く出来ないのよ。
でもね、私から言わせたらあなたの方が不器用だわ。
周りを頼れとは言いません。けれど周りを見渡してごらんなさい。
あなたの周りは一緒に走ってくれる人がたくさんいるはずよ。
あなたは一人で突っ走り気味だけれど、周りはそれに影響されて嫌でも前に進まないといけない。
けどそれで救われる人もたくさんいるのよ。背中を押される人がたくさんいるわ。
ゆかり、その人達との縁に気付きなさい。あなたは一人じゃない。どんな時も、あなたの周りは素敵な人で囲まれているわ。
少し、あなたの名前の由来を書きましょう。
さとるさんとよくどんな子に育って欲しいか、という話をしたわ。さとるさんは頑固だから、子どもに理想を押し付けるのはダメだっていってたけれども。
けど、一つだけ願うとしたら、人との関係を大事にする子に育って欲しい。人との"縁(ゆかり)"を大事にしてほしい。そう二人で話しました。
ゆかり、あなたは名前に負けないくらいいい人に囲まれて育ってくれました。
ゆかり、あなたは周りをとってもいい"縁"に囲まれています。
ゆかり、あとはあなたが気づくだけよ。
どうしてもこれだけは伝えたかった。
あなたたちは私たちの誇りです。胸を張って、歩んでいって下さい。
私たちのところに産まれてきてくれて、
ありがとう。
母より"
あぁ。
なんか全部わかってたんだな。分かった上で受け入れてくれてたんだ。母は偉大だ。
あれ、なんでだろう。すごく嬉しい。嬉しいのに大粒のしずくがぽたぽたと手紙の上に落ちる。
なんなんだろう、この感情。
私はなんてちっぽけで、一人でしょいこんで、
でもだから、恵まれていて、幸せで。
カーテンの隙間から橙色の日差しが溢れてくる。窓の外には、母と縄跳びの練習をした公園や、初めて母に連れられて幼稚園にいった並木道が見える。
「私は、ゆかり。素敵な"縁"に囲まれた幸せ者だ。おかあさん、ありがとう。ありがとね。」
母との思い出にひとしきり浸った後、手紙を封筒にしまおうとすると小さなカードが入っている事に気付いた。人差し指と中指でつまんで取り上げると、メッセージカードだった。さっきの手紙と同じで、震えた字で、でも丁寧に文字が書かれている。
"
p.s.
あなたのことだから、写真帳も全部捨ててしまおうとしてるんじゃない?
いいのよ。写真帳は過去の思い出を大事にしまうもの。私の、あなたたちの心の中に大事にしまわれています。
でもドライフラワーの瓶は大事にとっておきなさい。それは今の気持ちを未来に繋ぐもの。あなたの御守りになるでしょう。
ゆかり、いつも見守ってますよ。
"
ドライフラワーの入った小瓶を持ち上げると夕日がきらりと反射する。
携帯を取り出し、ひなたに電話をかける。
「もしもし」
「あ、ゆか姉。どうしたの。」
「ずっと、ずっとありがとね。」
「え、なに、きもちわるい。どうしたの?」
「ううん、ただ伝えたかっただけなの。」
「そっか。おかあさんが何か伝えてくれたんだね。」
「うん。私って恵まれてる。」
「ほんとだよ。実はね、あたし、ずっとゆか姉が羨ましかった。色んな人に囲まれて。いい影響を与えて。」
「うん。それに気づかないとね。」
「でも良かった。やっぱりおかあさんはずっと私たちの事見守ってくれてるんだね。」
「そう、見守ってくれてる。」
「じゃあ、また明日。」
「また明日。」
電話が終わった後、ひとしきりものを片付けた。がらんどうになった部屋は不思議と寂しくない。灯りを消して、玄関から出ようとしたとき、ふと思い立って一本電話をかける。
「もしもし」
「先輩、お電話ありがとうございます。」
「こたろうくん、来週の三菱商事でのプレゼン、資料作り手伝ってもらえるかな。」
「待ってました。他のみんなもゆかりさんがいつでも帰ってこられるよう準備してますよ。」
「こっから巻き返すよ。」
「望むところです。そうだ、先輩?」
「ん?」
「なんか、電話だからか分かんないっすけど、雰囲気変わりましたね。」
「いいから。さっさと仕事しなさい。」
「りょうかいです!」
扉を開けると、日が沈んで少し涼しくなった空気が流れてくる。遠くの方では笛の音がなっていて、近所の子どもたちが遊ぶ声が聞こえる。一歩一歩踏みしめながら、駅の方へ向かう。
小瓶に入ったドライフラワーと共に。
完