【映画「永遠に美しく…」感想】永遠の美に勝るもの、なし
大学生の頃に一般教養の講義で書いた映画「永遠に美しく…」の感想というかレポートが出てきたので、文字が読みたくてしかない時にでもどうぞ。
読みづらい部分を少しだけ直したりしました。しっかり読みなおす勇気はないのでん?とかえ?とか思うところがあっても許してやってください。
1.あらすじ
「永遠に美しく…」は、監督:ロバート・ゼメキス、脚本:デヴィッド・コープ、マーティン・ドノヴァンの、1992年に放映された映画である。
最近落ち目の人気女優、マデリーン・アシュトン(メリル・ストリープ)のショーに、昔からのライバル、ヘレン・シャープ(ゴールディ・ホーン)が、有名な整形外科医であるアーネスト・メルヴィル(ブルース・ウィリス)を婚約者として紹介しにくる。
それをみたマデリーンは嫉妬とヘレンへの嫌がらせのため、アーネストを誘惑し、結婚式をあげてしまう。ヘレンはショックによる激太りで、7年後には病院に送られてしまう。しかしさらに7年後、完全に冷め切った仲のマデリーンと葬儀屋に転職したアーネストのもとに、ヘレンからの出版記念パーティへの招待状が来る。パーティに向かうと、そこにいたのは若さと美貌を保ったままのヘレンがいた。かつての復讐をたくらむヘレン、一方今度は嫉妬に狂ったマデリーンがどうにか若さを保ちたいと、ふとしたことから知った不思議な女性リスル・フォン・ローマン(イザベラ・ロッセリーニ)から変わった薬を買う。そしてみごと若返ったマデリーン。だが、それは永遠の若さをゾンビとなることで保つ薬であった。ヘレンとのひと悶着の後、お互いに同じ薬を飲んだことを知り、永遠にエンバーミングで自らを美しく「修復」するために、今度は共謀してアーネストに同じ薬を飲ませようとする。だが、アーネストは「永遠の美しさ」もとい「永遠の死」を断り、逃げ切って新たな人生を歩み、「普通に」亡くなる。ラスト、アーネストの葬式に出席する二人の女性。お互いに慣れないエンバーミングをし続けもはやおぞましい姿の彼女たちは、それでもなお美しさを求めていた。
2.美しいもの
この映画のテーマは言うまでもなく「美しさ」である。よって、頻繁に鏡がでてくる。そして鏡をはじめとした「フレーム」は、この映画における「美しいもの」を囲んでいる。例えば冒頭のマデリーンのショーの場面。ショーのセットであるフレームに彼女が写り、舞台を歩き回る。落ち目といえど人気女優のマデリーンは、ショーを見ていたアーネストを魅了する。次のシーンであるマデリーンの楽屋でも、大きな鏡は彼女を枠に収めている。そしてこの場面でも、ヘレンを無視するアーネストの反応から、美しいものはマデリーン>ヘレンであることがわかる。7年後、すっかり太ったヘレンはテレビでマデリーンの出ているドラマを何度も見ている。この場面でもテレビの画面というフレームに収められているのは若き日の美しいマデリーンである。
そしてそのさらに7年後、すっかり老けたマデリーンだが、やはり彼女は鏡というフレームの中にいる。家政婦に毎朝自分は美しいかと問い、そうだと言わせている、つまり彼女の中では自分は美しいままだと感じているのだ。しかしパーティのシーンにて若返ったヘレンが登場するや否や、一転してフレームはヘレンを囲む。ここで美しいものはヘレン>マデリーンとなったのである。嫉妬に狂いリスルの館に向かうマデリーンは化粧もはげて醜く映る。そこでリスルの薬の効能を知り、それを買ったマデリーンは若返り、「美しく」なる。もちろん彼女は鏡に向かう。また一転、フレームは彼女を囲う。
だが物語が進行し、彼女とヘレンが単に「生きる屍となった」ことが判明して以降、フレームはとうとうヘレンもマデリーンも捕えなくなる。すなわち、「誰も美しくなくなった」のである。「美しい」はすの女主人リスルをフレームが囲わなかったのも、彼女がマデリーン達と同じ「生きる屍」であるからだろう。リスルは70代である。
3.暗示するもの
冒頭シーンはマデリーンのショーハウスの映像である。雨が降り、彼女のポスターがはがれて地面に貼りついている。ショーハウスからでてきた夫婦が「マデリーンもがんばっていたけど、年には勝てないわね」という。そして実際に老けたマデリーンがリスルの館へ向かうシーン。雨が降っている。彼女は車を運転しているので濡れるはずはないのに、涙で化粧は剥がれ落ち、自らがもう若くないことを自覚する。
マデリーンにアーネストを奪われ、自暴自棄な生活に浸り激太りしたヘレンは、テレビ画面に映るドラマのマデリーンを見ている。画面の中のマデリーンは首を絞められて殺されている。マデリーンが喘ぎこと切れると、ヘレンはマデリーンが生きている場面まで映像を巻き戻し、再生。また彼女が死ぬと巻き戻し、画面の中のマデリーンは何度も死んで何度も生き返ることを繰り返す。まさにこの後の、マデリーンの、アーネストに階段から突き落とされてもヘレンに撲殺されても、生き返る展開そのものである。もっともヘレンも同じく生と死を繰り返すのだが。
ラストはアーネストの目線で物語が進行する。彼はヘレンとマデリーンに不死の薬を飲むように仕向けられて、リスルの館に迷い込む。そこでは大々的なパーティが開かれていた。彼女たちと同じ「不死の人々」のパーティであるのは一目瞭然である。そして触れられこそしないが、そこにはマリリン・モンロー、アンディ・ウォーホル、エルヴィス・プレスリー、ジェームズ・ディーンが少々あからさまに画面に登場する。この場面の前に、アンディ・ウォーホルのマリリンをオマージュしたような作風のマデリーンを描いた絵画が彼女の屋敷に飾られているのも見受けられる。
マリリン・モンローは「美しい女」の象徴である。そして死後数十年たつ今でも、多くの人の思い浮かべる彼女のイメージは若く美しいころのままである。彼女は絵や映像の中で若いまま生き続けているのである。モンローは、睡眠「薬」の過剰摂取で亡くなったと言われている。
アンディ・ウォーホルはアーティストである。マリリン・モンローをビビットな色合いのシルクスクリーンで描いた作品が有名であり、シンボル(記号)を何度も繰り返し、その作風からは資本主義への虚無や空虚さをも感じさせる。ウォーホルが好んで繰り返したのはアメリカ社会に溢れる軽薄なシンボルである。「永遠の美しさ」に、金にかこつけて手軽に手を出す女性も、きっと軽薄なシンボルなのだろう。
ところでウォーホルは「同じものを繰り返す」作品を作り、「機械になりたい」といい、「シンボル」をこよなく愛した。一方マリリンは「同じことを繰り返すのは気がのらないわ」「女性は機械じゃない。私は機械になりたくない。」「シンボルにはなりたくない」といった言葉を残したとされる。なんとも皮肉な組み合わせである。
エルヴィス・プレスリーは歌手であり、その死因は処方箋の誤った使用であったとされる。つまり処方ドラッグである。薬漬けとなったことが不整脈へ繋がり死を招いたとされる。
ジェームズ・ディーンは「若さ」の象徴である。運転中の突然の事故により、あまりにも若くして亡くなった。その早すぎる死は彼を20代の若さのまま画面の中に「永遠に」生かし続けた。
「女性」「軽薄なシンボル」「薬による死や破滅」そして「永遠の若さ」。映画のテーマがこれでもかというくらいあらわされている。
4.弱い「男性」強い「女性」
この映画に出てくる「男性」は、えてしてみな「弱い性」として描かれている。象徴すべきはアーネストだ。マデリーンの誘惑に負け、有名な整形外科医から葬儀屋への転落、マデリーンには尻に敷かれ、ヘレンからもいいように扱われ、ついでに勃起不全である。そのままの意味で「去勢された」男性なのである。冒頭のショーにでてくる鍛えられた雄的な体をした男性ダンサーたちの役は、マデリーンを崇拝し足元に跪くことである。マデリーンの愛人であった男性も、ヒモという立場上彼女に逆らうことはできず、こびへつらう。リスルの館にてリスルに仕えるのも、男性ダンサーよろしく見た目は極めてマスキュリティを持った筋肉質な男性たちである。彼女が階段から落ちた後に向かった病院では、彼女が生きているのに心臓が動いていないことを診断した医師はショックにより心臓発作をおこして死亡している。唯一「強さを持つ」と思われるマデリーンにリスルの館を紹介した美容クリニックの院長は、女性のような言葉を話す「女性的な」男性なのである。
一方「女性」はどこまでも強い。マデリーンに復讐を誓うヘレンの不屈の闘志、ひたすらに「美しい自分」を追い求めるマデリーン、彼女たちに「若さ」という力を与えるリスル。顕著な場面として、マデリーンがアーネストに階段から突き落とされたものの蘇るシーンがある。この時彼女は「首が背中を向いたまま」生き返ってしまうのだが、自分を殺そうとしたアーネストに対して「911に電話すればあなたは終りよ!」などと恐ろしく気丈で勇猛に振る舞う。しかし首のことに気付くとたいへん取り乱した。またヘレンも同じく、マデリーンに銃で撃たれ腹に風穴があくが、最初に彼女が嘆いたことは「ビキニが着られなくなること」であった。
そして二人はあろうことか「仲直り」するのである。実にあっけからんとしたものである。「女の友情は脆い」などとは「男性が」よく言ったものだが、そもそも男女における同性同士の友情は、本質的に似て非なるものではないかと考える。
5.まとめ・美しさは強さ
この映画においては、「男性」性など必要とされていないのである。彼らは彼女たちの「きっかけ」であり、彼女たちを引き立てる「小道具」であり、彼女たちの強さを証明する「劣った比較対象」なのである。それは近年の社会における男性の役割を、女性が担うようになってきたこと、女性が自らの強さに気付いたことを表しているとも考えられる。男性的な目線によるが、シンボリックなことをいえば「女性の強さ」と「美しさ」はしばしば同義語とされる。
ラストシーン、アーネストは亡くなるが、教会での葬儀にて「彼の魂は彼の子供たちのなかに永遠に生き続けるだろう」といわれる。つまりマデリーンやヘレンの手に入れた「永遠」に相対する「永遠の生」なのである。
この映画はマデリーンとヘレンが階段から落ちてバラバラに砕けるものんきに会話するシーンで幕を閉じる。確かに「皮肉な」「いかにもブラックユーモアな」結末である。観客は彼女たちの滑稽さににやりとするのかもしれない。
しかし彼女たちにとって、アーネストの手に入れた「永遠の生」など全くもって「どうでもよいもの」なのである。観客の憐れみも嘲笑も歯牙にもかけていないのである。
彼女たちが欲しかったのは「永遠の生」などではなく「永遠の美しさ」だったのだから。
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