受取拒否
夏に就職したので、その挨拶に2週間ばかり手紙を書くことを続けていた。葉書に印字をしたものを予め用意してあったので、そこまで大きな手間でもなかったはずだが、これがなかなか骨の折れる仕事であった。挨拶文を印字しておいたとはいえ、表も裏も全てタイピングで済ませ、手書きの要素が一文字もないものを送るのはいかにもぞんざいで、自分の性に合う作業ではない。そこで、宛名は全て手書きで書き、裏面の挨拶文の余白には相手方への感謝であるとか、日頃の便りを怠ったことへのお詫びなど、ひとり一人の事を思い出しながらごく簡単に書き添える。そして一通ごとに蘇る思い出に胸が熱くなったり、あるいは思わず恥ずかしさがこみあげたりといったことを繰り返すうち、頭は次第にいうことを聞かなくなるし、手首の鈍い疲労も手伝って書き損じがどんどん増えてくる。日中は新しい仕事に体を慣らすことに一杯一杯になりながら、家に帰って寝るまでを、このような形で送るのだから、どれだけ頑張っても一晩に一〇通ほど書くのが関の山である。
そうして書きためた葉書は一二〇通ほどになったかと思う。嬉しいことに、中には丁寧にお手紙を返してくれる方があり、あるいは電話を掛けてくれる方もいた。その心のこもった言葉を読み、聞くうち、一通一通恋文でも認めるかのような手つきに夜半過ぎひとり赤面しながら書きつけた言葉がしっかり届いていることを確認し安堵するのであった。
しかし、一二〇通ほど各所に送ったうち、五通ほどは送り返されてきてしまった。「あて所にたずね当たりません」という素っ気ない文言の切れ端が貼り付けられているのだが、個人宅ではなくその人(がいたはず)の所属先へ送っているのだから、その組織が看板を下げたのでもなければ、たずね当たらないはずはないだろう・・・しかも、そのうちの二、三にはご丁寧にも「受取拒否」と書きつけられている。それを手に取って呉れるはずだった方への気持ちまでも「拒否」されたことを私には意味した。相手方の退職によって受け取れないのであれば、無関係な書類としてそのまま打ち捨ててもよさそうなものである。にも関わらず、わざわざ「拒否」の意志を丁寧に示してくる。そしてその為に、郵便料金が費やされた・・・などとひとつ一つ考えるたび、厭なものが胸から、喉奥から湧いてくる。
さらにその中の一通は、赤字で書いた「受取拒否」の文字を、わざわざピンクのラインマーカーで塗ってあった。「受取拒否」という四文字の冷たさと、そこに一手間かけたことを示すピンクの温かい色味が、なんと不釣合いなことか。それは、「拒否」を突きつける先である私への礼儀などではなく、”「拒否」するにしても一定の気づかいはあるのだ”と弁解する、至極形式的で事務的な作業であるに違いない。このような疑念を投げかけることすら「拒否」されているのだが、その場で捨てるのも面倒で、さしあたっては「受取拒否」の箇所だけ黒のボールペンできれいさっぱり塗りつぶし、引き出しの奥の方に突っ込んである。