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🖊️中里介山の大乗仏教
中里介山 あれからもう100年たつ
芥川龍之介は死ぬ前年の秋、佐々木味津三を招待して、中華料理を一緒に食べたことがある。いつになくジョウゼツで、話題はミステリーから大衆文学におよび、「興味中心の文学を樹立するのは大事業だ、ちっとも恥じることはない、百年後に文芸大事典を編纂する者があったら、現在活動中の純文学作家は一、二行しかふれられないかもしれないが、中里介山には数ページを費やすことにならんともかぎらない」と語った。
これも文学史の抜粋だが確認中。1927年 昭和2年の前年の秋ということになる。佐々木味津三は小説家で旗本退屈男の作者ということらしい。もう一本の右門捕物帖もめちゃくちゃ面白そうだ。激奨したのは芥川で、上記の引用も佐々木味津三のエッセイからの孫引きに違いがないが、佐々木味津三を見い出したのは菊池寛で、無理をさせたのも菊池寛かはわからないが、佐々木味津三は37歳で過労死している。そして今ほぼ冒頭の引用で芥川が語った100年後になろうとしているが、結果は介山も芥川も、ほとんど顧みられないということでいいか。
昭和の生臭坊主、今東光にいわすと、芥川一派とインディーズ中里にはただならぬ因縁がある。
だけどその前にねえ、久保田万太郎と中里介山の決闘というのもあったんだよ。それはね、新国劇で介山の「大菩薩峠」をやった。そしたら、久保田万太郎が劇評でぼろくそにやったんだなあ。そのころは、久保田さん、あんな書生芝居のド素人の集まりで・・・って口汚く攻撃していた。中里介山なんて作家でもなんでもない。講談にもならないようなバカな「大菩薩峠」のようなものを、戯曲化して、しかも木戸銭取るなんて詐欺だとかなんとか書いた。そうしたら介山から、久保田万太郎のところへ左封じの決闘状が来たんです。久保田万太郎、気が小さいから震えちゃった。それで、あのでけえ腹抱えて、フウフウいいながら、どこへ飛んでったと思う?芥川龍之介のところだよ。そしたら芥川が、「きみ、これはやむをえん。男だから受けなくちゃいけない。潔く受けなさい。そのかわり介添は私が、今東光に頼みましょう。そしてあなたの骨披露のは今東光(笑)。負けたら、その場で中里介山を打ちとめてもらいましょう」って言った。ほんとだよ。それで、そのお使いに藤澤清造と岡栄一郎が来たんだよ。要するに、久保万は必ず負ける。だから、久保万がちょっとでも切られたら、おれが「勝負あった」と割って入り、それでも介山がやめないようなら、「卑怯なり」とかなんとか言って、介山をたたっ斬ってくれっていうんだ。むちゃな話だよな、ほんとに。でも、おれとしたら、引き受けざるをえないと思っていた。
結局、これもまあ、久保田万太郎、弱いから刀を収めるとかなんとかにしちゃった。だけど中里介山の方は、実際に、刀抜いて飛び込んで行ったりね、三多摩の山の奥でピストルを撃ってたり、はなはだ穏やかでない、平気でやりかねねんだ。
今東光 昭和48年
右門捕物帖はこちらに詳しいが、古書で値段見ただけで萎える。
旗本退屈男はこちらで、これは何となく見た記憶がある。
映画の時代からラジオ、テレビの時代になって物語を楽しむ方法は増えた。100年前の出来事なのでずれているところもあるが、芥川の激励の視点も悪くない。そしてたとえ相手がうぶな地方の文学青年だったとしても、一生費やす価値があると思わせる芥川の筆の力はすごい。さながら音無の構えのごとくに。
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