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🖊️坪内逍遥&岡倉天心 フェーノローサせんせーい
坪内逍遥
坪内逍遥は、明治十二年(1879)にこの大学の本科の政治科に進んだ。この学校で彼はイギリス人の教師につていてチョーサー、ミルトン、シェークスピアなどの古典を習った。しかし、彼の同級生たちはもっと新しい英米文学を読みふけっていた。それはウォルタースコット、ポー、ブルワーリットンなどであった。坪内はそれらの学友にすすめられて英語の小説を読み、自分の知っている馬琴や為永春水などの江戸文学と比較して仲間と議論するようになった。その仲間には、のちに日本の美術および東洋の文化一般を論じた英語の本「東洋の理想」や「茶の本」を書いた岡倉天心がいた。
そのころハーヴァード大学を卒業したばかりのフェノロサという才気活発な若い教師がやってきた。フェノロサは政治学、経済学、哲学史、美学などを講じた。そのうちにフェノロサは日本の美術に心をひかれ、その研究に努力するようになった。英語のよくできた岡倉は、フェノロサに近づいて彼の研究に助力をした。しかし英語会話の不得意であった坪内は、フェノロサの講義を十分理解することができず、明治十四年の六月、大学の最後の過程にすすむ前の年に、フェノロサの政治学の試験の成績がわるくて落第した。彼はそれまで政府から学費をもらっていたが、落第したためにその特典を失った。
多分大正文学史からの引用だと思うが今調査中。文学史の冒頭のはずだが逍遥を英語力でかなり「ディスっている」形になっている。その後逍遥は民間の専門学校の講師になるが、それがのちの早稲田大学になるので、もし今情報系の専門学校で物理教えてたりする人はめげないで頑張ってほしい。
どうもフェノロサというのはアメリカ人のようだ。
アーネスト・フランシスコ・フェノロサ(Ernest Francisco Fenollosa、1853年2月18日 - 1908年9月21日)は、アメリカ合衆国の東洋美術史家、哲学者で、明治時代に来日したお雇い外国人。日本美術を評価し、紹介に努めたことで知られる。
助っ人外人、とか、他に呼び名はないのか。絶対本人意味わかんないで死んだと思う。おー、オヤトイとか
改めて経歴読むと、彼は政治哲学の枠でやってきて、美術とは関係ないらしい。天心、恐ろしい子。来日当時フェノロサは25才で天心が15才、なんだか年代はずれるが、10歳差の二人で英語でキャアキャアお寺を見ていたのかもしれないと夢想すればやや楽しい。
このフェノロサに声かけたのがモースで、モースは動物学者。
逍遥はおそらくフェノロサにはぜんぜんハマらなかったが、色々の話は天心としていたはずで、友達の力はバカにならない。
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