千沢の幽霊
表題
千沢の幽霊一子生ず
概要
とある城の城主の千沢(ちざわ)という者が死後幽霊となって夜な夜な自分の妻の元に通い、その結果、妻は千沢の幽霊の子供を妊娠した。子供ができたことで未練がなくなったのか、それから千沢の幽霊が現れることはなくなった。
訳文
慶長(1596年~1615年)のころ、ある城の主で千沢という者が死んだが、妻に対する執着心が残ったのか毎晩妻の寝室に現れ共寝をした。あまりに度重なるので乳母の女房が不審に思い千沢の妻に尋ねたところ、妻は包み隠さず答えた。
「ええ、夫は毎晩私の元を訪れてくださいます。この世の人でないとは知っていますが全く恐ろしいこともなく、ますます愛しさが増すばかりです」
ほどなく妻は千沢の子を身ごもった。
ある晩、乳母の女房が千沢の幽霊のせいで妻に悪い噂が立っていることを責めたところ、千沢の幽霊は、
「貴方が言うことはもっともだ。だが、私は生前から子供が居ない事だけは無念に思っていた。その執着心は死んでも無くなることはなく、そのせいで今もこうしてこの世に留まっているのだ」
と懺悔していたが、望みのとおり妻が玉のような男の子を産んでからは執着心がなくなったのか、千沢の幽霊は二度と来ることはなかった。
その後千沢の妻は高木某に嫁いだのでその子供は高木家で迎えて養育し、成人してから千沢の家を継がせた。
原文
慶長年間、ある一城主千沢某死て後、其妻に執心こそ残りつらめ、夜毎に来りて枕をならべ、閨中現在の時にかはることなし。度かさなりければ、乳母の女房是を聞とがめ、不審に思ひければ、憚尋けるに、彼後室隠さずのたまひけるは、さればとよ、千沢殿此日夜がれせず吾われを訪給ふなり。此世におはせぬ人とは思ひけれども、つゆばかり恐懼する事もなくして、益御いとをしみ深き思ひなりと語りける、ほどなく身ごもりたまひける。乳母の女房或夜千沢幽霊にむかひて申けるは、殿様はかくあさましき御心にて、御執着のふかくおはしませば、奥様の御名も立、御導師も疎そかにあるゆへなどと人のさたし申さんも、偏に君の御心からなさしめたまふ所なりと、かきくどき申ければ、千沢答ていはく、其儀汝が申所至極せり。去ながら我娑婆にありしときより、一子のなかりし事をのみ朝暮念じわびしが、其執心のつみふかくして、なをも止事を得ず、今かくのごとしと懺悔したまひしが、本意のごとく玉のようなる男子を出生あり。それより後には執着の念絶し故にや、彼幽霊二度来らず、実に希代の珍事なり。其後彼後室は、高木何がしへ嫁しければ、高木迎へとりて養育し、成人の後千沢の家督を相続させけるとぞ。
出典
『煙霞綺談 巻之三』江戸後期刊(『日本随筆大成 第1期第4巻』、吉川弘文館、1975年)