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ブルシット・ジョブが日本を滅ぼす
ふと周りを見渡せば、そこらじゅうに“ブルシット・ジョブ“が溢れている。何も決めない定例会議、誰も読まない報告文書、責任感のかけらも無い管理部門等々枚挙にいとまがない。今、この瞬間に無くなったとしても全く問題がないことは明白なのに莫大な時間とお金と労力が費やされているクソどうでもいい仕事。社会が発展し、より複雑になっていくとともに、ブルシット・ジョブが増幅していくとなれば、いずれ日本は滅んでしまうのではないかと心配せずにはいられない。生産性のない人間を養うこのある種搾取構造が国力を削いでいるのは間違いないからである。
『ブルシット・ジョブ〜クソどうでもいい仕事の理論』 デヴイット・グレーバー著
“ブルシット・ジョブ“という概念は2018年にアメリカの人類学者デヴィッド・グレーバーが著した 『ブルシット・ジョブ〜クソどうでもいい仕事の理論』原題:Bullshit Jobs: A Theory にて示されている。グレーバーはブルシット・ジョブを‘意味がなく、不必要で、あるいは有害だと働き手のみなしている仕事‘だと定義しているが、この働き手の主観での判断という基準が特徴的である。そして近年、ブルシットであるとみなされる仕事の割合が急速に増加しており、この事実は深刻な社会問題だと指摘している。
ブルシット・ジョブが増殖する背景には、テクノロジーの進歩が労働時間削減ではなく新たな経営封建制というシステムの発達に寄与している状況があるとしている。現在の経営封建制は非常に多くの階層が複雑に位階化されたヒエラルキーであり、社会的価値を生み出している現場から搾取した富を再分配するシステムである。このシステムは誰かが意図して設計したものではないが、既得権益のある人々には非常に都合の良い仕組みであるが故に変えようという議論は起こらないと主張する。もちろんここに官民の別はない。このシステムにおいて重要となるのはあくまでもヒエラルキー内での力関係であり、ここで本書に示されたブルシット・ジョブの主要5類型(取巻き、脅し屋、尻拭い、書類穴埋め人、タスクマスター)が意味を持ってくる。
またグレーバーは、労働者側が労働自体に価値があるという思想に洗脳されているとも指摘。そしてブルシット・ジョブの増殖を抑える一つの具体案としてベーシックインカムの導入を挙げている。
ブルシット・ジョブが生まれる背景についての考察
既得権益者に都合がいいシステムから生まれるブルシット・ジョブの数々については、多くの生々しい声が本著書にも記載されており、特にサラリーマンを経験した人であればそれら内容について共感する部分は少なくないと思う。IT機器の発達により業務効率は飛躍的に向上しているはずなのに現場の負担は減るよりもむしろ増えている現状もブルシット・ジョブの増加により、真の意味で社会的価値を生み出している人々が減っていると考えれば合点がいく。そしてブルシット・ジョブの精神的負担の大きさはあるものの、この方がより良い報酬、高い社会的地位が得られるのだから、働きがいを優先した選択をする人が少数派になるのは必然。SNSやYouTubeといったネットが普及した現在、この不都合な現実はかつては考えられないほど一般に知れ渡ってしまっているので、少し合理的に考えれば、誰だってブルシット・ジョブが蔓延る世間的高評価の業界に入りたいと思うであろう。このような思いは、例えば東京一極集中の問題にも同じように当てはまる。どう取り繕っても搾取される側(地方)から搾取する側(東京)に移りたい気持ちを抑え続けることはできない。こんな状態が進行していった先に明るい未来を感じることができるだろうか。
それでは明るい未来のために、社会的価値を何も生み出しているわけではないのに富を貪っている連中がいなくなればすべてが解決、革命だ!、となればすべてがうまくいくだろうか。実際既得権益と一言で言ってもその程度はグラデーションを持って広がっているもので、全く既得権益がないという人はおそらく存在しない。さらにグレーバーの定義するブルシット・ジョブを作り出している層にしても、幾分かはその仕事の中に社会的意義を見出しているものである。(ただこのような仕事は、たいてい浅はかで的外れなものがほとんどであり、故にブルシット・ジョブとなってしまうのではあるが。)100%の悪人もいないし100%の善人もいない状況において犯人探しをしても始まらない。
経営封建制と名付けた搾取構造を悪としてこの問題の根本原因を論じるよりも、ブルシット・ジョブを生み出す原因を、社会が複雑化していくことで現場からの距離がどんどん遠くなっていく個人なりコミュニティの問題として捉えるべきではないかと思う。現場感覚を失った集団が、自分たちの内輪の論理で、集めた富を再分配するとき、その基準は合理性を失いブルシット・ジョブが生まれる。現実というフィードバックのない集団に一般常識は通用しない。
そもそも人間の思考は究極的には自分の頭の中に閉じられた世界であるから、全ての判断、意見は自分の枠組みの中でしか形作ることはできない。閉じられたコミュニティの中に組み込まれた個人は、次第にそのコミュニティの考え方に染まっていき、あたかもその考え方が世界のすべてであるこのような錯覚を起こす。例えばある程度規模の大きい企業の中間管理層のコミュニティにおいて、面倒を起こさず経営層の意見に従うことが有利だという場合を考える。このコミュニティの規範に照らし合わせれば、見かけ上の経営指標至上主義、希望的妄想ベースの事業拡大計画、管理者をさらにまとめて管理する部門の創設、顕在化していない重要課題への無関心などは、全くもって正しい行いとなるだろう。もっともらしい事業拡大案や現場からかけ離れた管理強化といった施策がブルシット・ジョブの大量発生を産むのは言うまでもない。自分の立場、勢力範囲、コミュニティ維持が最優先であり、社会的価値とは無縁の仕事。こうなると本人たちは、自分たちの仕事の意味など全く考えなくなる。こういった考え方の枠組みが出来上がってしまうと現場ベースの意見はもはや雑音にしか感じない。
枠組みを打破する処方箋
各個人そしてコミュニティの思考の枠組みから現場感覚が失われることが、このブルシット・ジョブ問題の原因だとすれば、その根絶に向けたアクション自体はそう難しいものではないのかもしれない。改めて考えてみるまでもなく、ありのままの現実と向き合う事なしには何もできないということは当たり前のことであるし、そういった行動自体が特別な能力や技術を要求するものでもない。その気になれば誰だってできる。問題はただそこに立ち戻れない思考停止に陥った考え方の枠組みのみである。しかしながらここで結局のところ各人の思考の枠組みを打破するのが容易でないという厳然たる事実に突き当たる。知らず知らずのうちに周囲に合わせ、楽な方へ流されて形成された思考の枠組みの壁は想像以上に強固で高い。実際、個人の思考の枠組みから形作られる組織文化を変えるのはほぼ不可能なことのように思える。現場の富が枯渇するまでは、聞く耳さえ持たせることも難しい。
しかしその一方でよく言われる町工場的思考とかベンチャー企業精神、またアメーバ経営といったマネージメント手法は、この壁を突き破るための現場感覚を忘れない仕組みが共通しているように思う。すでに多くの実績を伴ったやり方が見出されているのだ。つまり方法はある、あとはどれだけ多くの人が立ち向かえるかと言うことでしかない。何しろブルシット・ジョブが蔓延る世界はどう考えてもつまらない。こんな生き方をするために生きているわけではない、と考える人が一人でも多く増えていくこと切に願う。