恩師 村上敦先生!最終編
前回に続いて恩師村上先生のことを書かせて頂きたい。先生は本当に学生の面倒見が良い方で、年に2度くらい先生のご自宅に招待してくださり、いわゆるゼミコンパを開いてくださった。料理は毎回奥様が作ってくださり、酒も振舞ってくださった。今にして思えば、大変な労力だったと思う。酔っ払ってゲロする奴、裸になって躍りだす奴もいて本当にいい迷惑だったと思う。それ以外にも新歓に追い出しコンパ、一橋大、大阪市大との三商大コンパ、慶應とのインゼミコンパとかも定期的に行われていた。そして温泉旅行や東南アジアへの卒業旅行も。そのような場で、酒を酌み交わしつつ色々な話を聞かせて下さった。
卒業後、数年して先生が毎週のように神戸から上京するようになった。たまに誘って下さって定宿のホテルに何度かお伺いした。「今度大学院大学作るねん。社会科学系学部の統合的な大学院で、世界のあらゆる課題に対応できる大学院なんや」「入学試験にはTOEFLも必須で、世界中から学生集める。授業も全部英語やで」「国際協力の専門家を作る学校で、卒業したら国際機関や外交機関や各国の政府で働いてもらうんや」とそれは熱く語っておられた。そして「これは俺のライフワークになるかも知れん」とも。また「男はロマンが大事やで」と、シングルモルトを口に運びつつおっしゃった。当時まだ駆け出しの商社マンだった僕は、ウイスキーの似合う先生に男として尊敬と憧憬を感じたものだ。
数年間の上京が続いたと思う。文科省にその大学院大学の設立認可を得るべく掛け合われていたのだ。融通が利かず決断しない官僚にかなり怒っておられることもあった。後で大学関係者や身内の方から聞いてわかったことだが、先生は孤軍奮闘の状態に近かったようだ。当時先生は50代半ばで今の僕と同じくらいのご年齢だ。そして1992年、信念を貫かれて見事ミッションを達成された。校名は神戸大学国際協力研究科(GSICS)というもので、初代学長に就任された。全く新構想の大学院大学で実にチャレンジングな挑戦だった。先生の大事な教えの1つ、”SOMETHING NEW”(前例の踏襲でなく、何か新しいことにチャレンジせよ)を自ら実践して示して下さった。30年近くも経って、改めてその偉業に感動させられると同時に、中原中也ではないが「ああお前は世のために何をして来たのだ?」と自問させられる。
GSICSの設立は僕らの卒業後のことなので、OBOGもその経緯はご存知ない方も多いかも知れない。たまたま先生の戦いを何度か見聞していた僕は、その苦行の一端は知っている。そして20代だった僕はその大学院大学がどれほどのものかはわかっていなかったが、今になれば分かる。今世界が最も必要としている学問だ。先生の先鞭にやっと時代が追いついたのだ。偶然にも社起大のコアコンセプトであるSEC METHODにも通じる