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荷物を丸ごとなくした話

路線の乗り換えついでに、よく難波の高島屋に寄っていた。地下に、書店「丸善」があるからだ。

平積みする本のラインナップがちょこちょこ変わったり、文房具の新商品が所狭しと並べられていたりするのを見るのは楽しい。帰宅経路にあることもあって、よく通う本屋さんのひとつ。

この日も、いつも通りるんたるんたと軽やかなステップで本屋さんに吸い込まれる私。

本棚をいくつか見て、程なくしてお手洗いに行きたくなった。ちょっと今日はお水やコーヒーを飲みすぎてしまったかもしれないな。

用を足しながら、欲しい本のことを考えていた。今月中旬に観劇する予定があって、その劇の元となる作品を買おうと思っていたのである。

お気に入りの演者さんが出ていることと、文学好きの血が騒いで、めちゃめちゃ最速も最速のところでチケットをひっ掴んだ。楽しみ。

だのに!私という奴は!『銀河鉄道の夜』をきちんと読んだことがなかったのである!

大学で近現代文学を専攻していた者として、また数年とはいえ国語の教員をやっていた者として、大ッッッ変お恥ずかしい限り。

ジョバンニとカムパネルラとザネリが出てくることくらいは知ってる。

まぁ本というのは出会うべき時に出会うものですから。たまたま、私とこの名作が邂逅するのが今だった、ってワケ。

お手洗いを済ませて、本屋さんなので念入りに手の水分を拭き取り、いざ書店ルーティンスタート。

まずはその本屋さん独自が開催しているフェアのコーナーを見に行く。この時は芥川賞と直木賞の関連書籍が展開されていた。

そして文庫本コーナーに行く。今回のように目当ての本がある時は探すし、目当てがなくてもとりあえず見る。

いつもなら、興味のそそられるタイトルや表紙デザインを見つけ、裏表紙のあらすじを読んで、うんうんとしばらく悩んで、家にある積読たちに思いを馳せ、また棚に戻すのを繰り返す。

今回は『銀河鉄道の夜』が目的なので、新潮文庫と、角川文庫と、岩波文庫と、集英社文庫で悩んだ。どんな悩み方やねん。

紙面の文字の詰まり具合と明朝体のフォントが好みであること、紐のしおりがデフォルトでついているという理由で新潮文庫が好きなので、それにした。

『銀河鉄道の夜』を手に持ったまま、次は雑誌コーナーにまわる。コミックスコーナーにはめったに寄らないが、絵本コーナーは気が向いたらたまに行く。

ひと通り、いつもの動線どおりに歩いて、レジ近辺に展開される文具コーナーに後ろ髪を引かれつつ、お会計のための列に並んだ。

自分の番がやってきて、スマホでPayPayを起動した。店員さんが「ブックカバーかけますか?」と聞いてくれるので「結構です」と答えた。

続いて「ポイントカードありますか?」と聞かれたので、いつものポイントカードを取り出そうとした。PayPayで支払うのに、結局カード出すために財布取り出さないといけないな〜なんてことを思った次の瞬間、私は重大なことに気付いた。

カバンがない。


正しくは、2つのカバンを持っているはずが、1つのカバンしか持っていなかった。

今手元にあるのは、仕事で使うチラシやパンフレットなどの書類だけが入ったトートバッグ。ぶっちゃけ今は使い物にならない。

本屋のポイントカードが収まっている財布が入っているのはリュックで、私はこの時リュックを背負っていなかった。

……いつ?どこで?


心臓が跳ねる。どっどど どどうど どどうど どどう。

リュックには財布をはじめとするその他貴重品(家の鍵、業務用スマホ、手帳)と、絶対に失くすもんかと意気込んで買ったAirPods proなどなど、まぁとにかく大事なもんが大量に入っている。

私の肩凝りを毎日助長してくれる、束縛彼氏(彼女)よりも重い、激重リュック。なぜそんな重いものが無いことに気づかない!?おかしいやろ!?

どこで置いてきたかの記憶も完全に抜けちまっている。思い当たる節がないことが怖い。自分が怖い。

風がどうと吹いてきて、草はざわざわ、木の葉はごとんごとんと鳴るどころじゃない。冷や汗と変な熱が同時に襲ってきて顔がくしゃくしゃの紙屑のようになりそう。ていうかなった。

でも目の前には涼しい顔をしてポイントカードの有無を尋ねる店員さん。自分が食われると気付いた2人の紳士並みに私がアワアワしてるなんてつゆ知らずに。

不幸中の幸い、スマホだけは持っていたので、PayPayでお会計を済ませ(Pay↑Pay↓という決済音までもが今は憎らしい)、さっきまで自分が歩いていた動線を辿って探したが、リュックは見つからない。

ほんたうのしあわせはいずこに。手中に銀河鉄道はあるのに。嗚呼、南無三。

本屋をぐるりと見てからピンと来た。

……トイレかも!


(ピンと来るのが遅いだろと思いつつ)一目散に、さっき利用したトイレに駆け込んだ。あまりに焦りすぎて男性用トイレに入ってしまい、気づいてすぐ出ようとしたら、ちょうど入ってこようとするおじさんと目が合った。

きっとおじさんは困惑したに違いない。

結局、確認したけどトイレに荷物は置かれておらず、これはもう誰かに奪われたと諦めるか、サービスカウンターに行くしかないと思った。

心拍数激上がりで破裂しそうだったが一旦平静を装い、近くの店員さんに声を掛けた。「すいませんサービスカウンターってどこですか!」

しかし私が急いて声をかけたのは丸善の人じゃなくて、明日から開催するのであろうポップアップショップの準備をしていた、外部のスタッフさんだった。

万年筆メーカーのパーカーさんだった。声をかけてから後悔した。絶対に知らなさそう。忙しそうやのに。ごめんなさい。

スタッフさんはちょっとだけ困りながら、でも私の茹でダコのような赤さとコントロールのままならない噴き出す汗を感じ取ってくれたのか、「ちょっとお待ちくださいね」と確認してくれた。優しい。

その確認された人が、また別の人に確認しに行った。どんどん上層部に行くやん。ごめんほんまに。だんだん恥ずかしくなってくる。

ちょっと高島屋に詳しそうな人が出てきてくれて、「7階ですね!」と教えてくれた。ありがとうパーカーさん。いつかパーカーさんの万年筆買います。その折にはパーカーのスタッフさんに感謝の意を述べさせていただきます。

さぁ、場所が分かったからには、あとはもうダッシュで向かう他ない。

百貨店のエレベーターは待てど暮らせど来ないというのは縄文時代からの常識なので使わない。エスカレーターを駆け上がる、駆け上がる。

フロアに到着したはいいけど、今度はそのサービスカウンターの場所が分からなくてしばらくウロウロした。

ここだ!と思ったところはセレブなマダムが来るような会員向けサービスの窓口だった。ちゃうやん。助けて。

ウロウロしてる時に、ちょっとだけ思考回路が落ち着き始めたのか、自分の行動を思い返した。

なぜ会計時に財布を出そうとするまで肩が軽いことに気づかないのかと、めちゃくちゃアホやんけと思った。

どういう感情かをうまく言語化できないのだけども、カバンを忘れる・失くすことに理由なんてなくて、もう気づいたらそうなってましたとしか言いようがない。ランドセルを忘れて登校(下校)する子もこんな感覚なんだろうか。

満身創痍でサービスカウンターに(走る足が渦巻きになるイラストのイメージで)駆け込んだら、そこには見慣れたリュックがあり、何か紙に書き込みをしている従業員さん。

アッ

それ私のです!!!!!!


従業員さんがこちらを見て、ああ、どうぞコチラに、と座るよう促してくれた。もうなんかぐちゃぐちゃで、椅子が重くてうまく引けなかった。


「どなたが見つけてくださったんですかね」

「店舗の従業員ですね」

「はァそうですか、ほんとにもう、ありがとうございます……」

重厚感のある椅子に尻を預けて、なんかもう恥ずかしさで頭がぼーっとして、一周回って眠気に襲われた。(なんで?)

「中身見させてもらいました、すみません。あまりに貴重品入ってるから、もう少しで警察に届けるところでした」

「いやーまじですか、ほんとすみません、いや、謝るアレじゃないんですけど、もー、ほんまもう、なんで、カバン丸ごとどっかやるなんてこと、あります???
あそうそう、こういう時って持ち主かどうか確かめるのに身分証明書要りますよね?でも身分証明書ぜんぶそっち(リュック)に入ってるので、身分を証明できるのがスマホに入ってる銀行口座くらいなんですけどそれでもいけますか????」

「落ち着いてください」

ここまで早口でまくし立てて、従業員さんがくすくす笑ってくれたので、私のアホがちょっと報われた。笑われなやってられへん。

とりあえず口頭で生年月日を言い、書類に名前を書いたらそのまま返却してもらえた。書類の「遺失物なんちゃら」っていうその文字列がめちゃくちゃ物々しい風格だった。

もっと拘束時間が長引くかと思ったらそうでもなく、もしかしたら私が悪人かもしれない可能性だってあるのに、顧客を信じてくれて、百貨店って素晴らしいなと思った。

そして日本最高!なくした荷物が戻ってくる!過去には幾度となくスマホを置き去りにしたことのある私だが(知らん土地の循環バスにスマホだけ放置してバスツアーさせて戻ってきたことがある)、

まさか荷物丸ごと置き去りにするチョンボをやらかすとは思わなかった。注意力散りすぎ。

なんども従業員さんにペコペコお礼をして出て、家まで無事に帰った。落ち着いたけど、焦りで心臓がギュンってなった後遺症はしばらく続いた。

しわくちゃの紙屑のようになった紳士の顔が元に戻らなかったのはそういう教訓を心身にに刻みつけろっていう宮沢賢治からの教えなのかもしれない。……いや、ちゃうか。

参考?文献
『注文の多い料理店』青空文庫
『風の又三郎』青空文庫

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