運命論・私
なんかラノベの目次みたい
こんにちは。
私は常々
「私のことを救えるのは私しかいない」
と思ったり言ったりしているのだが、
この元となる考え方について最近話をしたのでなんか思いつく感じで書いていこうと思う。
とくに結論は無い。
最初に
私は 私のことを救えるのは私しかいない
と思っているが、同時に
私は誰のことも救うことが出来ない
とも思っている。
それは天がそう采配していないからであり、
何より私には人を助く能力がないからだ。
この話がどう後半に繋がるかと言うと
別に繋がりはしないんですけど
「私は人間社会において無能な人間である」
と自己認識した人間が書いていると
思っていただけると私の言いたいことが
理解しやすいかもしれない。
運命・幸運
私は運命を信じている。
よく ふんわりスピリチュアルと表現するやつ
なにか幸運なことがあった時は、
基本思考である「私は運がいい人間だ」
という考えを補強する結果となる。
幸運に恵まれている人間として生きている
幸運を采配した天を感じながら生きている
誰かに助けられた時、
その誰かにも勿論多大に感謝すると同時に、
「この助けを手配してくれた天に感謝」
という感覚がある。
逆になにか不運系のトラブルがあった時は、
・将来の更なるトラブル対処の為の経験として
・このトラブルにより引き起こされる幸運の為
天に与えられたものだとして受け入れる。
あとは幸運と不運のバランスをとるための
不運として捉えている。
基本的には不運は
〈先の幸運のために〉与えられたものであり、
不運そのものを悲観する必要はない。
極論、私にとって いい出来事というのは全て
運。
こんな素晴らしい人たちと仲良くなる
偶然をありがとう
こんな素晴らしい作品と出会えた
偶然をありがとう
健康で自由意志のある世界に生まれ落ちた
偶然をありがとう
私が掴み取ったものではない。
天の優しさと、人の優しさで成り立つもの。
運命・不幸
では日々の不運を全て「幸運のための布石」
として捉えているかと言うと全然そうではない
人間関係、仕事、生活、何においてもまず
人間が悪い。
と、いうのも
あいつのせいだ!となるよりかは
この世の不利益はすべて当人の能力不足
という東京喰種の名言に沿ったものになる。
誰々に嫌なことをされた。
私にはそれを受け入れる心の広さがなかった。
環境に馴染めなかった。
私には愛嬌も面白さもなかった。
こういったものから、
チケットが当たらなかった。
私には足るべき愛が足りなかった。
とかいう理不尽なものまで。
とかく不幸は自分の努力不足によって
引き起こされるものであり、
私が全知全能で最強であれば
起こりえないものなのだ。
だから人を責めるのも、運を責めるのも
お門違い。
嘆くなら己の努力不足を嘆くがよい。
という訳である。
とはいえ、自分が不幸をどう捉えているかは
正直分からない。
ネガティブになっている時が
正常な精神状態だとは思えないし
これは幸運に比べて「天のせいだ」と
全く思わないという話である。
そして「誰のせいだ」と思うことも、
そういえばあんまりない。
不幸の存在自体を
あまり認めたくないのかもしれない。
「幸運のため」以外の理由ある不幸なんて
都度 認識していたら私は生きていかれない。
あと「誰々がなんとかしてくれていれば」
みたいなことを思うのがシンプルにダサいので
嫌だというのもある。
人を責めるよりは自分を責める人間でいたい
人を責めて得るものもないし
ただ、まあ
自分に限らず、
明らかに誰かのせいで起こった不幸だとしても
「人間が避けようと努力しなかったために
起きたもの」として認識はしている。
人が幸福に向かって努力すれば幸福になるのに
全力の努力がなかったために起きた事態。
それが不幸。
運命・バランス
私がよりよく生きようと思うのは
自分のためである。
人に優しくすれば優しい人として存在できる
物に優しくすれば天に幸運を采配してもらえる
多分。
純粋に人のためを思って動いて、
動いていたつもりの行動を、
結局人を助ける自分に陶酔していたのでは?
とのちに思うことも多々ある。
だからもう人のためとかいう不安定な動機を
信じるのはかなり厳しいものがある。
「自分をいい人間として生かしてあげたい」
という動機が大きいと思う。
よきことを成せばよき運が帰ってくる
と思っているが、
悪しきことを成せば
悪しき運に出会った時に
「うわー悪しきことのせいだ」
と思ってしまう。と感じている
よきことは帰ってくると思っているけど
悪しきことは帰ってくるか不明
悪しきことを自分が分かってやるのが問題で
悪しきことのせいで悪しき運が来た、
と感じてしまう(=自分の行動を後悔する)
のが嫌なので悪しきことをしたくない
なんだかまとまらない文章になったなあ
要点をまとめると
・幸福は天のおかげ ラッキーな人生
・不幸は人間のせい 主に自分の能力不足
・天に認められるため、自分に認められるため
よき人間でありたい
と思っています 以上
私
最後におまけ
私は物語に触れなくなると精神が悪くなる
ネガティブになるし、
思考が鈍るし、
我儘になる
でも最近思ったんだけど
それが本来の私じゃないの?
物語摂取後の自分って、
人の意見に非常に流されやすい自分が、
頭のいい人が書いたいい感じの文章を見て
頭が良さそうでいい感じな考えを持ってる
感じになってるだけじゃないの?
私が本を読むのって
本来我儘で鈍くてネガティブな自分を
抑え込んで何とか人間社会に溶け込めるように
しているプロセスなんじゃないの?
ていうか
私がよりよく居ようとしているのは
社会に教えられたよりよい人間という概念に
洗脳されているからであり
本を好んで読むのは
本を好んで読む親の元に
運動神経の悪い体で生まれたからであり
友は私に構ってくれる素晴らしく優しい人間を
配置してくれた天からの慈悲であり
じゃあ私が選んだものってなんだ?
私に残されている事実って
それらを教えこまれ運に乗る
人間という生き物として生きている
というただその1点だけなのでは?
それが私を私たらしめる要素は全くもって
無いのでは
全ては入力に対するテンプレート出力なのでは
と思ったり思わなかったりした、日
とはいえ
家族や友人に対する愛と感謝だけは
ぜってえ譲らねえ
アンパンマン?
俺のもんだ、人との関わりは
あと推しも
俺の推しだ
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