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写真日記:2025年2月18日

最近はワールドを巡りながら写真を撮ってそれをにTwitterにすぐ上げるというのをやってる
これがとても楽しい
6年以上前VRCを始めた頃もこんな風に色んなワールド巡って何も考えず写真を撮ってた気がする

見上げたらいた飛行船
クリスマスにpublicで出会った天使たち
いい感じの冬、めっちゃ寒そう

ずっと写真がすきで色々撮ってきたが、最近の撮影というのはあまりにもハードルの高いものになってしまってる気がしてる
ワールドを選び、APSやカメラギミックなどを色々使い、撮ったあとはレタッチをして、その上投稿時には色んな人に見られるように色々考えて…
フォトコンとかになればテーマや審査員のことを考えてみたいなことをやってると写真一枚に求められるものがあまりに増え過ぎている

反射って楽しい

当たり前だが別にそういう風にこだわりを持って撮影することは悪いことではないと思ってる
むしろ自分が撮りたいものを必死に考えて、それを表現するためにあらゆる手段をとるのは当たり前だと思うし、それを沢山の人に届けるために努力するのも作家としてとても大事なことだ
でもそのために色々やった結果、写真を撮ること自体が負担になり過ぎて逆にシャッターを押せなくなってるんじゃないか私は…みたいなことはよく考える
写真を撮ること自体が目的になってしまって、本来の「撮りたいから撮る」という感覚が薄れるんだと思う

雲海を飛んでたら空に流星が流れていたので

特に最近は「自分の中にあるイメージを出力すること」が重視されがちだと思ってる
どれだけ完成度の高いモノを作れるか、どれだけ独創的な作品を生み出せるか、どれだけ多くの人に見てもらえるか
ある意味で「作品」としての側面が強くなりすぎているのかもしれない

これは私一人でやってきたことではないがVRChatで写真を撮るということに"Virtual Photography"という名前をつけ、それをアートとして認めてもらうために活動してきたと思う
その過程で、"Virtual Photography"そのものの価値や意味を考え、たった数年ではあるがみんなで多くの試行錯誤をしてきたように思う
自分で書いてておこがましさすら感じるが、こういうことをやってきたからこそ、写真を撮るという行為自体がとても大変で高尚なもののように見えてしまってるんじゃなかろうか…?
やってきた事に何も恥じるところはないが、それはそれとしてそういう弊害を生んでしまったんじゃないかというのは考える

写真は本来、誰にでも撮れるものだ
スマホでも、一眼レフでも、VRCでも、撮影の手段はさまざまだけど、写真を撮るという行為自体はとても簡単なものだ
なのに、技術や表現にこだわるほど、写真は特別なものになり、自由に撮ることができなくなってしまうような気がする

しかし、本来の写真とはもっと素朴な活動ではなかったか…?
もっと気軽なものではなかったか…?
色んなワールドを巡って、色んな人と出会って、いいなと思ったらシャッターを切る、それだけでよかったはずなのに
何かを伝えようとしなくても、そこにあるものをそのまま受け止めてそれを撮る、それで十分だったはずなのに
そういった楽しみを忘れかけていたように思う

りおもろさんとワールドをいふらふらしてる最中に振り向いた時の写真

だからこそ、改めて「ただ在るものを撮る」という行為をしていきたい
作品としてではなく、評価ではなく、ただ純粋に自由に!
写真を撮る
そんな楽しみ方を思い出してる

最近、ワールド巡りをしながら写真を撮ることにハマっているのは、そんなシンプルな楽しみを取り戻したいからかもしれない
私はただ、そこに在るものを在るがままに撮りたかっただけなのだ

これからもただ在るを撮っていきたいね

いい光



追伸
ちなみにこういう「作品」じゃなくてもいいんじゃないかというのは、そう思うほどにVRCでの写真が成熟してきたということでもあるので良い発展だとは思っている
でもそれだけじゃないでしょ写真はとも思ってる
あまりに方向性が一辺倒だと面白くないしもっと自由でいいはず
もっと手軽に撮って記録に残していこうよ
その先にある選択肢もほんとはあると思うんだよ

私達はみんな撮りたい写真もやりたいことも違う
だからみんなで色んな方向性に走っていこう
そうやって広げていこう
私達はまだまだ先に進める

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