インドネシアロックマニアってホームページあったね 〜アジアロックの鬼〜
2016年驚愕の音楽本が発刊された。デスメタルインドネシアとタイトルから本当にこんなマニアックな本を世に出していいのかと思われそうな本だが、その本の著者こそ、インドネシアロックマニアにおいても豊富な知識でBBSの書き込みやその後行われたイベントに参加していたCinta Kecil氏(チンタクチル)こと小笠原和生さんである。2020年現在においてもアジアのロックについてはミュージシャンも含めた人脈の多さと知識で誰もが認める第一人者であるが、20年前の小笠原さんの知識も半端でなかった。
当時インドネシア音楽に関する日本語のホームページといえば、大衆音楽のダンドゥット関連もしくはガムランなどの伝統音楽のものがほとんどで、ロック関係でいうとSuehira氏のGONG2000のページと小笠原さんのAsiang Rock Risingしかなかった。
小笠原さんの知識は、インドネシアのロックはもとよりアジア全体のロックを網羅しており当時においても情報量は半端でなかった。当時のAsiang Rock Rising のWebページには、100を超えるインドネシアの新旧ロックバンドがリストアップされておりそのリストが、俺の中古カセットの購入の道しるべとなっていったのだ。インドネシア語のWebページもしらみつぶしに調べていたのだが彼の情報に勝るものはなかった。
そういう意味でも小笠原さんがいなければインドネシアロックマニアは立ち上がっていなかったと今振り返っても確信する。
さて彼は、日本在住であったが、俺と知り合ってから、恐らく5回インドネシアで、行動を共にしている。
彼がインドネシアにくるたびに、楽しいエピソードが満載だった。
ここでは、インドネシアロックマニアがまだ存在していた時期に小笠原さんが来イしてきた2回のエピソードを書き残したい。
アジアロックの申し子Cinta Kecilとの初めての出会い
インドネシアロックマニアを開設ししばらくした時Cinta kecilというハンドルネームで投稿してきた人物がいた。Cinta Kecilはインドネシア語では、”小さな恋”を意味するが、そのかわいいハンドルネームとは裏腹に彼が当時開設していたホームページをみると、超マニアックなアジアのロックの情報が展開されていた。何度かBBSやメールでやり取りしていると、彼が自分より一回り以上年下であること、PowerMetalというインドネシアメタルに狂酔しており90年代にはインドネシアのメタルバンドPowerMetalに会いにスラバヤに渡航していることなどを知った。
当時の俺は、前回話したのM97FMやカフェのミュージシャンのつながりなどもできており、ホームページのみならず、実態としてのインドネシアロックライフを誰かと共有したい欲求に駆られていた。それゆえCinta Kecil氏を必要にインドネシアに誘っていた。そしてある日、Cinta Kecil氏から行きますとの連絡が..
絶対に満足して帰国してもらおうと念入りに行動計画を立てた。
当時の記録によると以下の旅の記録が残っている。
残念ながら当時の写真は私の手元に残っていないが、当時の小笠原さんの印象は大変シャイな好青年というイメージだった。M97FMの生放送で、曲のコメントだったか何かを求められ30秒ほどの無音を作ってしまっていた。完全な放送事故だが、ジャカルタのローカルFM局なので、だれも気に留めず番組が流れていったことを思い出す。
また、多分Elpamasの開演前だったかと思うが、会場の周りが突如停電してしまい。会場の空調も効かず仕方なくみんな外に出て小笠原君とElpamasのギタリストToto Tewelと道端でぼんやり時間を過ごたのを思い出す。
まだまだ昔の雰囲気が漂うジャカルタが緩かった時代だ。
スラバヤでの再会
次に小笠原さんがインドネシアに来たのは、2001年の10月だった。
小笠原さんが愛するPOWERMETALのギタリストLucky SWの結婚式に出席するので来ないかとと誘いだった。当時特にPOWERMETALとも親しくはなかったので、またいろいろな人々に会えるチャンスと一つ返事で参加させてほしい旨伝えた。
小笠原君とその友達久保田君とスラバヤの空港で待ち合わせした。
当時小笠原君が旧知の当時全盛期だったBoomerangのマネージャーKenが車で迎えに来てくれた。
*久保田君(左)Ken(右)と食事をするRockind
その後当時Boomerangが所有していた一軒家に案内された。ここが我々の宿舎となった。3人で夜をそこで過ごし、早朝のみ市場(パサール)が開くということで小笠原さんは、バイクにのって朝早くからカセットを買いに行っていた。久保田君と俺は残ってくつろいでいたら、Boomerangのリーダー(ベーシストのHenry)とドラマーのFaridがジャカルタから戻ってきてしばし談笑した。 その後スラバヤデスメタルシーンの聖地となっていたスタジオ&CDショップのInfernoにKenに連れて行ってもらった。
Infernoには、のちにTengkorakに加入したSlowdeathのSamirがいて、スラバヤメタルシーンのことを話し合った。(1年後にはジャカルタのNIRVANA CAFEで再会している)
*中央でSlowdeath Samirと談笑するROCKIND
InfernoからLucky SWの自宅で行われていた結婚式に参列する。小笠原君はLuckyとは既に非常に親しくLuckyの部屋でギターのレクチャーを受けてたようだ。Luckyは、その後Powermetalへ再加入するのだが、当時は音楽をやめてギター工場で働いていた。
てなことで当時小笠原さんとインドネシアロックで盛り上がっていった。
その後小笠原さんはAsiang Rock RisingというネットCDショップを始めた。
恐らく生涯かけてアジアのロックを普及していくんだろうと思う。デスメタルインドネシアの作者からメタルよりの趣向と思われがちだが、実は欧米の音楽も含め幅広いジャンルを聞いている。彼の選りすぐりのアジアのロックは全世界の音楽から選別されたものといっても過言ではないと思う。
小笠原さんとはその後なが~い付き合いになっていく、その後の彼のインドネシア渡航については、また別記事で書いていきたい。