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インドネシアロックマニアってホームページあったね ~南国のロック〜

インドネシアロックマニアって?

時は2000年、まだまだネット環境が熟成されていなかった頃、俺は、”インドネシアロックマニア”というホームページを立ち上げた。
読んで名のごとくマニアの見地でインドネシアロックを掘り下げていこうという主旨で始めたものだ。
 公開していたのはわずか2年、ひたすら日本人のだれもが知りえなかったインドネシアロック紹介し続けたこのホームページは、様々な情報がネットから入手できるようになるのを見届け幕を閉じた。
(*MIXIなんかでしばらくは形を変えて情報交換の場となっていたが)

何故にインドネシアロックに傾倒したのか?

1.偶然な駐在と暇
1998年スハルト政権の終わりに導く暴動が、インドネシアの首都ジャカルタで起こった。この暴動が起こる2か月前に、俺は会社の辞令によりジャカルタ近郊にある日系製造業を営む会社に出向となり赴任していた。 
 当時、俺は某商社に席をおいていたのだが、1990年初頭くらいから、日本の企業が海外に生産拠点を持ち始め、国内中心に設備機械の販売を担当していた俺にも海外駐在の指名がかかったのだ。それがたまたまインドネシアであっただけで、その地には、縁もゆかりもなかった。
(*正確に言うと1985年にサーフィンをするためバリに行っているが....)
そもそも前年度あたりより起こっていたアジア通貨危機による壊滅的なインドネシア経済の状況また前述の駐在直後におきた暴動の混乱(政局の混乱)で本来の仕事は壊滅状態で開店休業状態だった。ルーチンワークに追われることはほとんどない状況だった。要は、暇で時間があったのだった。

2.自国語のロックへの傾倒
 中学時代は、The Rolling Stonesや当時はやっていたハードロック中心で極めて普通の音楽の嗜好だった。
高校生になり、ふつうの深夜放送を聞き青春時代を謳歌していたのだが、1977年の9月の某火曜日の深夜3時にたまたま聞いた、近田春夫のオールナイトニッポンが、音楽の好みを一転させてしまった。彼は、自ら演じるロックミュージシャンであったが、流行音楽に対しいわゆる音楽評論家とは明らかに違う視点から論評していた。彼の感性に大きく影響を受け、それまでの本物、かっこいいものという洋楽のロック絶対というものから、インチキ臭いんだけどどこか心を打つ、日本のロックに傾倒していった。
実は、この感覚がインドネシアのロックにのめりこむのに不可欠なものであった。 どこの国のミュージシャンでもクールでセンスのある音楽をやろうと、欧米のロックを取り入れながら自らのオリジナルをとなるのであるが、完成品は、本人たちが意識していなくともにじみ出てくる国民性がにじみでる●●●国産ロックとなるのである。 摩訶不思議なその独特なサウンドを好んで受け入れるキャパが自分にあったのだと思う。

3.当時のインドネシアでの日本人
 昨今は、グローバル化が拡大してまた海外での事業活動における人材の枯渇もあり、グローバル人材の若年化が急激に進んだ。俺が1998年に初めてインドネシアの地で住み始めた頃は、周りの年齢層がとにかく高かった。
俺は、既に30代の後半に差し掛かっていたが、企業から派遣される駐在員は俺より年少者は極端に少なかった。そのような中所謂ロックなどを好んで聞く人間はほぼ皆無であったのだ。ましてやインドネシアのロックなど興味を持つ人間など皆無で、インドネシア人から見てとっても珍しい日本人(外国人)だったと思われたのであろう。これが現地のミュージシャンから非常に好意的に受け入れられ、彼らのコミュニティに知らず知らずうちに入っていくことができた。

4.少ない情報
 なんだかんだで、インドネシアのロックに対し興味を抱いたのだが、いかんせん情報が無かった。90年代後半のインドネシアロック界は、経済危機もあり、新譜を出せているバンドが極めて少なかった。また古い音源を聴こうと思っても、中古市場などまともにビジネス化されていなくどこで手に入れたらいいのかもわからなかった。もちろんネットの情報量も今のように豊富でなく調べる方法の術無かった。そのようなミステリアスな状況が逆にマニア心をくすぐったのかもしれない。

以上の様な環境が相まって俺はインドネシアロックにのめりこんでいくのだが、のめり込むにあたり非常に重要なあるインドネシア人との出会いがあった。

(インドネシアロックマニアってマニアックなホームページあったね 〜2〜に続く)

*次回以降、元来 写真嫌いなのもあり、写真を撮っていないのだが、数少ない写真も蔵出ししていきたいと思います。






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